art-tokyo

三島由紀夫

「(豊穣の海」四部作は)・・
意図して古風な、時代に背いた重みのある文体を
えらび、真実といえども格調にそわずに醜ければ
捨ててしまい、登場人物たちの一挙手にも一投足に
も大文字の荘重な雰囲気をもたせることで、言葉の
走りと行動の走りを統一させようとする理念にほか
ならなかった。」
(「新 書物の解体学」吉本隆明)

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三島由紀夫

精神を凌駕することのできるのは習慣という怪物だけなのだ。

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新ファッシズム論

ファッシズムは、誤解されている。
ファッシズムを理解するには、まずニヒリズム
というものを理解しなければはじまらない。

<歯車の虚無(ニヒリズム)>
「パーム・ダットによると、ファッシズムとは、
窮地に追いつめられた資本主義の最後の自己救済
だというのである。」

<日本のインテリゲンチャはファッシズムが嫌い>
「日本のいわゆるファッシストは、インテリゲン
チャの味方を持たなかった。・・・しかるに西欧
のファッシズムは、プチ・ブルジョアジーの革命
と考えられている。・・・
何故か?これが重要だ。ファッシズムはニヒリズ
ムにおもねったからである。」

<ニヒリズムからファッシズムへ>
「二十世紀初頭の西欧には、ニヒリズムによる反
理知主義の風潮が滔々たるものがあった。これに
おもねって世に出たのが、フロイドであり、ファ
ッシズムである。その先駆者がニイチェであった。
・・・・
ニヒリストは世界の崩壊に直面する。世界はその
意味を失う。ここに絶望の心理学がはたらいて、
絶望者は一旦自分の獲得した無意味を、彼にとっ
ての最善の方法で保有しようと希むのである。
ニヒリストは徹底した偽善者になる。
大前提が無意味なのであるから、彼は意味をもつ
かの如く行動するについて最高の自由をもち、い
わば万能の人間になる。ニヒリストが行動を起こ
すのはこの地点なのだ。・・・・

ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半
から今世紀初頭にかけての精神状況と切り離せぬ
関係を持っている。そしてファッシズムの指導者
が、まぎれもないニヒリストであった。
日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠
いものはない。」

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好きな女性

知的な女性をコテンパンに非難する三島氏にとっ
て魅力ある知的な女性とは、「贅沢と遊びに熱中
する女性」である。
三十前の男の女性観察としては、実に奥深い。

<何も考えない人>
「一癖ありげな女性というものは、やっぱり魅力
のあるものである。何を考えているのかわからな
い。ということが、もっとも私の弱点にひびく魅
力である。何を考えているのかわからない。とい
う風に見えるのは、往々、何も考えていないし、
習慣として何も考えない。ということでもあるが、
われわれ精神労働者にとっては、何も考えない人
間ほど神秘的にみえるものはないであろう。」

<贅沢と遊びに熱中する女性>
「こんな次第で、私の好きな女性の型(タイプ)
は白痴に近づくが、まるっきり白痴というのも
メガニズムがあらわに見えておもしろくない。
・・・教養もあり頭もよい女性のなかで、私の
心を惹く例外は、全力をあげて贅沢と遊びとに
熱中し、頭の中の知識のことなどは、おくびに
も出さない女性である。
こういう女性となら、戦いが成立する。
大へんに頭の要るゲームが成立する。」

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批評家に小説がわかるか

<批評家と文体>
「大体私は批評という一ジャンルの存在理由を
疑っている。直感的鑑賞と自己批評(乃至は自
伝乃至は告白)との中間地帯の存在理由を疑っ
ている。文体をもたない批評は文体を批評する
資格がなく、文体をもった批評は(小林秀雄氏
のように)芸術作品となってしまう。」

<芸術家の理解力は欠陥のしるし>
「理解力は性格を分解させる。理解することは
多くの場合不毛な結果をしか生まず。愛は断じ
て理解できない。志賀直哉氏に太宰治氏がかな
わなかったのは、太宰氏が志賀文学を理解して
いたにもかかわらず、志賀氏が、太宰文学を理
解しなかったという一事にかかっており、理解
したほうが負けなのである。
芸術家の才能には、理解力を減殺する或る生理
作用がたえず働いている必要があるように思わ
れる。理解力の過多は、芸術家としての才能に
どこかしら欠陥があるのである。」

<三島にとっての最高の文体、森鴎外>
「私は鴎外の文体を明治以後の唯一の文体と考
えることに変りはないが、何でも鴎外をまねて
簡素雄勁を心がければ、大人の文学と見てもら
えると謂ったスノビズムに、少しばかりの阿呆
らしさを感じているものである。」

<鴎外>
「鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの
盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に
復活すべき人なのだ。
言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語
を創り上げてしまったその天才を称賛すべきなのだ。」

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美学講座

-芸術にエロスは必要か-より

誰でも知っている言葉”エロス”、しかし、その母親
と父親を知っている人は少ない。

<エロスの母は”窮乏”父は”術策”>
「饗宴」(プラトン)の中で、賢女ディオティマの語る
ところによると
「エロスという奴は、神でもなければ人間でもない、死
なないものと死すべきものとの中間にあって、偉大な神
霊(ダイモーン)なのだそうだ。ダイモーンは、神と人
間の中間にいるのである。
エロスは母親であるペニヤ(窮乏)に似て、貧乏で、汚
らしく、跣足(はだし)で、宿無しであり、父親である
ポロス(術策)に似て、勇敢で、術策に窮せざる狩人で
あり、又、エロスの生まれたのがアフロディテの誕生日
であるところから、いつもアフロディテの僕(しもべ)
となって、美に憧れている。・・・・・重要なことは、
エロスが智慧と無智の中間におり、自ら智慧をもつゆえ
に智慧を求めない神と、無智なるが故に智者になりたい
とも思わぬ無智者との丁度中間にいて、自分の欠乏の自
覚から、智慧を愛し求めている存在だということである。」

<英雄>

「反貞女大学」
-第一の性-より

男は単純でバカで子供なのか?
いや、男は一人のこらず英雄であります。

<男はみな英雄>
「大体、結婚後二、三年の女性たちが集まると、
「男というものは、バカで、単純で、お人よし
で、ようするに子供である」という結論に落ち
つくようであります。それから、結婚後十数年
の女性たちが集まると、口にこそ言わね、「男
というものは、多かれ少なかれ、悪党で、ウソ
つきで、油断がならず、要するに謎である」と
いう結論が出るようであります。
最後に、金婚式にまで辿りついた奥さん方が集
まると、表現は大分穏当になっているが、又は
じめの結論に戻って、「男というものは、バカ
で、単純で、お人よしで、要するに子供である」
というところに落ちつくようであります。
・・・・・
「チェッ、わかってないな」・・・
男はとにかくむしょうに偉いのです。
・・・・・
男は一人のこらず英雄であります。私は男の一人
として断言します。ただ世間の男のまちがってる
点は、自分の英雄ぶりを女たちにみとめさせよう
とすることです。」

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文章読本

<水が来た>
数ある文章読本の中で、最も印象に残っているのは
三島氏が「文章読本」で森鴎外について言及してい
るところです。

「料理の味を知るには、よい料理をたくさん食べる
ことが、まず必要であると言われております。
・・・
そこで私は、まず二種類の、非常に対蹠的な文章を
お目にかけるつもりである。一つは森鴎外の「寒山
拾得」・・・
(注:あと一つは、泉境花の「日本橋」)

<森鴎外の「寒山拾得」の一節より>
”閭(りょ)は小女を呼んで、汲立(くみたて)の
水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれ
を受け取って、胸に捧げて、じつと閭を見詰めた。
清浄な水でも好ければ、不潔な水でも好い、湯でも
茶でも好いのである。”

この文章はまったく漢文的教養の上に成り立った、
簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません。
私がなかんずく感心するのが、「水が来た」という
一句であります。
この「水が来た」という一句は、全く漢文と同じ手
法で「水来ル」というような表現と同じことである。
しかし、鴎外の文章のほんとうの味はこういうとこ
ろにあるので、これが一般の時代物作家であると、
閭が少女に命じて汲みたての水を鉢に入れてこいと
命ずる。その水がくるところで、決して「水が来た」
とは書かない。まして文学的素人には、こういう文
章は決して書けない。
このような現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけ
いなものをぜんぶ剥ぎ取り、しかもいかにも効果的
に見せないで、効果を強く出すという文章は、鴎外
独特のものであります。」

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若きサムライのための精神講話

<約束について>
「このごろの青年の時間のルーズなことには
驚くのほかはない。また、約束を破ることの
頻繁なことにもあきれるのほかはない。」

これは、35年ほど前に書かれたものであるが、
今も、この憤慨は変わらない。

<約束とは、信義の問題である>
「一旦約束を結んだ相手は、それが総理大臣で
あろうと、乞食であろうと、約束に軽重がある
べきではない。それはこちらの信義の問題だか
らだ。
上田秋成の「菊花の約(ちぎり)」という小説
は、非常に信じあった友人が、長年の約束を守
るために、どうしても約束の場所、約束の時間
に行くために、人間の肉体ではもう間にあわな
くなって自殺をして、魂でもって友人のところ
にあらわれるという人間の信義の美しさを描い
た物語である。
その約束自体は、単なる友情と信義の問題であ
って、それによってどちらが一文も得をするわ
けではない。その一文も得をするわけでもない
ものに命をかけるということは、ばからしいよ
うであるが、約束の本質は、私は契約社会の近
代精神の中にではなく、人間の信義の中にある
というのが根本的な考えである。」

<努力について>

努力はしたほうがいい、もし、君に才能がなければ。
しかし、才能があれば、努力ほど楽しいものはない。

<努力とは非貴族的なものである>
「”天才は努力である”ということばは、いわば
成り上がり者の哲学であって、金もなく、地位も
ない階級の人間が世間に認められるための、血み
どろな努力を表現するものとしてむしろ軽んじら
れた。」

<努力よりもつらいこと>
「人間は、場合によっては、楽をすることのほう
が苦しい場合がある。貧乏性に生まれついた人間
は、一たび努力の義務をはずされると、とたんに
キツネがおちたキツネつきのように、身の扱いに
困ってしまう。・・・・
実は一番つらいのは努力することそのことにある
のではない。ある能力を持った人間が、その能力
を使わないように制限されることに、人間として
一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らな
ければならない。」

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新恋愛講座

<恋愛がなかったギリシャ時代>
ギリシャのプラトンの時代には「ほとんど男女の
恋愛というものはなかったのです。男と交わる女
は、みな娼婦でした。中には教養の高いのもいま
したが、とにかく娼婦が多かったので、それとの
間にはあまり恋愛は論じられず、遊びでした。
そして、普通の結婚はすべて子孫の存続のために
結婚したので、恋愛から結婚したのではありませ
ん。」

「ギリシャの恋愛とは今でいう同性愛で、美少年
との恋愛であります。」

<ヨーロッパと違う日本の恋愛>
ヨーロッパの恋愛というのは、騎士道がその典型
であり、貴婦人に対する気持ちは、聖母マリアに
対するのと同じなのです。
日本の恋愛はどうかというと、そこには哲学的背
景はなく、本能と感情だけなのです。
「露骨に言えば、一緒に寝たいという欲望です。
そこにいろいろな日本人の繊細な感情の美学が加
わったものが、日本の恋愛なのであります。」

——恋愛の技巧——

<接吻したいという目的>
「接吻したいという目的を、口で言うのはばかで
あります。・・・
何でも恋愛のものごとは、一つの「できごと」と
して起る必要がある・」

<肉体交渉を持ちたいという欲望>
「これはすべて会話の領分です。絶対に、会話で
運ばれなくてはなりません。というのは、相手の
オーケーか、ノーを確かめることが、一番大切だ
からであります。・・・
男の秘訣は、女に対しては、からだの交渉を持つ
までは、決して女の欲望を認めてはいけないとい
うことです。あたかも相手には欲望がないように、
ふるまわなければいけません。・・・少なくとも、
処女は自分の欲望を認められることを、大へんき
らうものです。」

<結婚したいという欲望>
「恋愛中、たとえ、彼や彼女が、結婚したくても、
あるいはしたくなくても、どっちみち結婚という
言葉は禁句であります。・・・
結婚の申し込みの古風な形式は、両親に会ってく
れと頼むことです。」

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文体

「私は単に機能的な文体というものを、
単に感覚的な文体と同様に愛さなかった。」

「私は何よりも格式を重んじ、冬の日の
武家屋敷の玄関の式台のような文体を好
んだのである。」

「私の文体はつねに軍人のように胸を張って
いた。そして、背をかがめたり、身を斜めに
したり、膝を曲げたり、甚だしいのは腰を振
ったりしている他人の文体を軽蔑した。
姿勢を崩さなければ見えない真実がこの世に
はあることを、私とて知らぬではない。
しかしそれは他人に委せておけばすむことだ
った。」

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おわり方の美学

(切腹(11月25日)まで4ヶ月余り
前(7月7日)の文章)

「二十五年前に私が憎んだものは、
多少形を変えはしたが、今もあい
かわらずしぶとく生き永らえてい
る。生き永らえいるどころか、お
どろくべき繁殖力で日本中に完全
に浸透してしまった。それは戦後
民主主義とそこから生ずる偽善と
いうおそるべきバチルスである。
・・・・・・
それほど否定してきた戦後民主主
義の時代二十五年間を、否定しな
がらそこから利得を得、のうのう
と暮らして来たということは、私
の久しい心の傷になっている。
・・・・・・
私は何とか、私の肉体と精神を等
価のものとすることによって、そ
の実践によって、文学に対する近
代主義的妄信を根底から破壊して
やろうと思って来たのである。
・・・・・・
私はこれからの日本に大して希望
をつなぐことができない。このま
ま行ったら「日本」はなくなって
しまうのではないかという感を日
ましに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、
無機的な、からっぽな、ニュート
ラルな、中間色の、富裕な、抜目
がない、或る経済的大国が極東の
一角に残るのであろう。
それでもいいと思っている人たち
と、私は口をきく気にもなれなく
なっているのである。」

「自分では十分俗悪で、山気もあ
りすぎるほどあるのに、どうして
「俗に遊ぶ」という境地になれな
いものか、われとわが心を疑って
いる。」
(「サンケイ新聞」昭和45年7月7日)

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愛国心

(以下、切腹2年前、43才三島氏の文章)
「実は私は「愛国心」という言葉が
あまり好きではない。・・・・
愛という言葉は、日本語ではなくて、
多分キリスト教から来たものだろう。
日本語としては「恋」で十分であり、
日本人の情緒的表現の最高のものは
「恋」であって、「愛」ではない。
もしキリスト教的な愛であるなら、
その愛は無限定無条件でなければな
らない。従って、「人類愛」という
のなら多少筋が通るが、「愛国心」
というのは筋が通らない。
なぜなら愛国心とは、国境を以て閉
ざされた愛だからである。」

「恋が盲目であるように、国を恋う
る心は盲目であるにちがいない。
しかし、さめた冷静な目のほうが日
本をより的確に見ているかというと、
そうも言えないところに問題がある。
さめた目が逸したところのものを、
恋に盲(めし)いた目がはっきり
つかんでいることがしばしばあるの
は、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本
では、冷静に日本を見つめているつ
もりで日本の本質を逸した考え方が、
あまりにも支配的なことである。」
(以上「朝日新聞」昭和43年1月8日)

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女ぎらいの弁

「大体私は女ぎらいというよりも、古い
頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思って
いるにすぎない。
女性は劣等であり、私は馬鹿でない女
(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに
会ったことがない。事実また私は女性を
怖れているが、男でも私がもっとも怖れる
のは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど
怖いものはない。
また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、
教育を全くうけていない聡明な人も沢山
いるから、何も私は学歴を問題にしている
のではない。
こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な
女性に会ったことがない不幸な男である、
という風に曲解して、私に同情を寄せてくる
女性がきっと現れる。こればかりは断言して
もいい。しかしそういう女性が、つまり一般論
に対する個別的例外の幻想にいつも生きて
いる女が、実は馬鹿な女の代表なのである。」

「女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽
と建築は女の手によってろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性
でよごしてしまう。構成力の欠如、感受性の
過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、
芸術において女性的様式は問題なく「悪い」
様式である。私は湿気の高い感性的芸術の
えんえんと続いてきた日本の文学史を呪わず
にはいられない。」

「私は芸術家志望の女性に会うと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才という
ものが理論的にありえないということに、
どうして気がつかないかと首をひねらざるを
えない。」
—————————————-
三島由紀夫の「女嫌い」に続いて萩原朔太
郎の「女嫌い」を紹介しよう。

「女嫌いとは、・・・人格としてではなく、
単に肉塊として、脂肪として、劣情の
対象としてのみ、女の存在を承諾する
こと。(婦人にたいしてこれほど・・・・・
冒涜の思想があるだろうか)
しかしながら、・・・多数の有りふれた
人々が居り、同様の見解を抱いている。
殆ど多くの、世間一般の男たちは、初め
から異性に対してどんな精神上の要求も
持っていない。
女性に対して、普通一般の男等が求める
ものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美
であり、単に性的本能の対象としての、人形
への愛にすぎないのである。
しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と
呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ば
れている。なぜなら彼等はどんな場合に
於いても、女性への毒舌や侮辱を言わない
から。
(「女嫌い」と呼ばれる人々は、女にたいして)
単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格
やを、真面目に求めているからである。
・・・・それ故に女嫌いとは?或る騎士的情熱
の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性
を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅に
よって導かれた、不幸な浪漫主義の破産で
ある。
然り!すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直
なロマンチストにすぎないのである。」

「すべての家庭人は、人生の半ばをあきらめて
いる。」

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女性化する時代

「愛される美を求めるときに、そこに女風が始まる。
それは、精神の化粧である。「葉隠」は、このような
精神の化粧をはなはだにくんだ。」(葉隠:三島)

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葉隠入門

「戦争中から読みだして、いつも自分の机の
周辺に置き、以後二十数年間、折りにふれて、
あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、
おそらく、「葉隠」一冊であろう。」

「行動の知恵と決意がおのずと逆説を生んでゆく、
類のないふしぎな道徳書。」

「「葉隠」の影響が、芸術家としてのわたしの生き方を
異常にむずかしくしてしまったのと同時に、「葉隠」
こそは、わたしの文学の母胎であり、永遠の活力の
供給源であるともいえるのである。」
(三島由起夫)

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エロス(三島由紀夫)

<エロスの母は”窮乏”父は”術策”>
「饗宴」(プラトン)の中で、賢女ディオティマの語る
ところによると
「エロスという奴は、神でもなければ人間でもない、死
なないものと死すべきものとの中間にあって、偉大な神
霊(ダイモーン)なのだそうだ。ダイモーンは、神と人
間の中間にいるのである。
エロスは母親であるペニヤ(窮乏)に似て、貧乏で、汚
らしく、跣足(はだし)で、宿無しであり、父親である
ポロス(術策)に似て、勇敢で、術策に窮せざる狩人で
あり、又、エロスの生まれたのがアフロディテの誕生日
であるところから、いつもアフロディテの僕(しもべ)
となって、美に憧れている。・・・・・重要なことは、
エロスが智慧と無智の中間におり、自ら智慧をもつゆえ
に智慧を求めない神と、無智なるが故に智者になりたい
とも思わぬ無智者との丁度中間にいて、自分の欠乏の自
覚から、智慧を愛し求めている存在だということである。」

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努力よりもつらいこと(三島由紀夫)

「人間は、場合によっては、楽をすることのほう
が苦しい場合がある。貧乏性に生まれついた人間
は、一たび努力の義務をはずされると、とたんに
キツネがおちたキツネつきのように、身の扱いに
困ってしまう。・・・・
実は一番つらいのは努力することそのことにある
のではない。ある能力を持った人間が、その能力
を使わないように制限されることに、人間として
一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らな
ければならない。」

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