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萩原朔太郎

あらゆる真面目な精神の中には一切の快適なものが失われている。

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青猫(萩原朔太郎)

「宇宙は意志の現れであり、意志の本質は惱みである
              シヨウペンハウエル
自序

「青猫」ほどにも、私にとつて懷しく悲しい詩集はない。

これらの詩篇に於けるイメーヂとヴイジヨンとは、涙の
網膜に映じた幻燈の繪で、雨の日の硝子窓にかかる曇り
のやうに、拭けども拭けども後から後から現れて來る悲
しみの表象だつた。

「青猫」の「青」は英語の Blue を意味してゐるのであ
る。即ち「希望なき」「憂鬱なる」「疲勞せる」等の語
意を含む言葉として使用した。

尚この詩集を書いた當時、私はシヨーペンハウエルに惑
溺してゐたので、あの意志否定の哲學に本質してゐる、
厭世的な無爲のアンニユイ、小乘佛教的な寂滅爲樂の厭
世感が、自(おのづ)から詩の情想の底に漂つてゐる。

西暦一九三四年秋    著 者 」

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「女嫌いと女好き」(萩原朔太郎)

「女嫌いとは、・・・人格としてではなく、
単に肉塊として、脂肪として、劣情の
対象としてのみ、女の存在を承諾する
こと。(婦人にたいしてこれほど・・・・・
冒涜の思想があるだろうか)
しかしながら、・・・多数の有りふれた
人々が居り、同様の見解を抱いている。
殆ど多くの、世間一般の男たちは、初め
から異性に対してどんな精神上の要求も
持っていない。
女性に対して、普通一般の男等が求める
ものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美
であり、単に性的本能の対象としての、人形
への愛にすぎないのである。
しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と
呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ば
れている。なぜなら彼等はどんな場合に
於いても、女性への毒舌や侮辱を言わない
から。
(「女嫌い」と呼ばれる人々は、女にたいして)
単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格
やを、真面目に求めているからである。
・・・・それ故に女嫌いとは?或る騎士的情熱
の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性
を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅に
よって導かれた、不幸な浪漫主義の破産で
ある。
然り!すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直
なロマンチストにすぎないのである。」

家庭人
「すべての家庭人は、人生の半ばをあきらめて
いる。」

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どこに詩があるか

「他人からの知識でなく、他人からの
学問でなく、真に「彼自らの思想」を
書いた人々の言葉は、どんな抽象的な
題材ーたとえば科学上の論説のような
ものーであっても、奇体なことには、必ず
そこに「詩」を感じさせる。
なぜといって、真に「彼自らのもの」と
なってしまった思想は、もはや概念でなく、
知識でなく、理屈でなく、実にそれ自らが
彼の生活における感情であり、尚進んで
は気質上の趣味でさえもあるから。
そして「詩」とは、つまりそうした者の
表現にほかならないのだから。」
(萩原朔太郎)

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