<宮沢賢治の童話>
「自分(隆明)などが斯う言ってよいか悪いか
判りませんが、彼(賢治)の童話作品に至って
は恐らく我が国空前絶後の作品であると思いま
す。」
<宮沢賢治の詩歌>
「彼(賢治)が日本の詩歌の伝統的系列の中で
占める位置はそれら(高村光太郎、三好達治、
中原中也、立原道造・・)の人の位置よりは
遙かに巨きく、且つ独自であると思います。」
「田を耕しながらでも詩や童話は書ける、
けれどもそのためにはどんな僅かなエネルギー
でも他の事に用ひてはならない」
(宮沢賢治)
<宮沢賢治、生命の悲しみ>
「彼(賢治)の作品には「生命の悲しみ」とも
言ふべき一つの悲哀を帯びた調子が一貫して
流れている事なのです。それは実に大きな悲し
みであり、私達の魂を奥底からゆすぶってさら
ひ去って行くやうなものなのです。
何か自然の悲しみと言ひませうか、山川草木の
悲しみと言ひませうか、その様な確かに宇宙の
創造的な意志に付きまとふやうな本質的なもの
なのです。生々流転の悲しみなのです。
ここに「悲しみ」と言ふ言葉を用ひましたが、
これは普通私達が用ひている悲観と言ふ意味と
は全く異り、更に大きな深い、(その中には
私達が喜びとか楽しみとか呼んでいるもの
すべて含まれている様な)意味の悲しみです。
他に言ひ現はすやうな適当な言葉は見付かりま
せんが、仏教で言ふ「無常」と言ふ言葉が表現
している、その本質実体とも言ふべきものに
通ふ悲しみなのです。
私は仮にそれを「生命の悲しみ」と名付けま
した。」
<宮沢賢治1896-1933の生き方から学ぶ>
「私達は彼(賢治)の作品の中から真の生き方を
求めるべきであります。大きな銀河系にとどく様
な正しい意志を汲み取るべきであります。」
1933年9月21日,賢治「臨終の時は彼の側には母
一人がいて、彼は母親に礼など述べていたが、
ガーゼにオキシフルをひたしたもので身体をふき、
母親が一寸後を振返った時には既に帰するが如く
示寂していた。」
「大正から昭和初期に亘って稀有の壮大な宇宙感
覚と、高貴な生活と、肯定精神とを掲げて、東北
の青暗い風物の中で深浄な輪廻の舞を舞ったこの
一個の魂は、北上残丘の彼方へ遠く果しなく消え
て行った。もう彼は還らない。この稀有の偉大な
風格は再び日本の国土に生れかはらない。
後代は日本の生んだ最後の聖者として聖宮沢賢治
を遇するだろう。」
<宮沢賢治論>
・空前絶後の詩「雨ニモマケズ」
昭和6年(1931)11月3日、36才(1933.9.21没)
病床の中で「雨ニモマケズ」を手帳に記す。
「精神の高さに於て空前絶後の詩であります。」
「東洋が近代ヨーローッパを超克し得る唯一つ
の残された道を私は宮沢賢治から学ぼうとする
ものです。
私たちがむしろ宗教的な信仰に似た謙譲な心で、
彼を巨大な星のやうに仰ぐことが出来るのは、
ゲーテの言ふ「どんなときにも青空を仰ぐやう
な眼と心の余裕」を彼が持っているためでは
ないのです。掬めども掬めども尽きぬ深淵が、
恐らくは波音一つたてずに静かに青く湛(たた)
えられている彼を見るがためなのです。
どんな嵐がきてもゆるがない静かな巨大な肯定
精神の源泉を彼が持っているからなのです。」
・新しさはどこからくるのか
「彼の童話にしろ或は詩作にしろ一つとして
新しくないものはなく、彼だけが築いている
特異の一宇宙を私たちは眺めるばかりなので
す。私は彼が一切の伝統を無視し、固定した
思想を無視し、刹那刹那の時間軸の上を横転
している、その豪壮な決断が一体何に由来し
ているかを考へずには居られませんでした。
・・・
彼の残している足跡、彼の抱いている思想的
な色合は、最も日本的なものであり、最も日
本人以外の何者でもないことを示しています。
彼は言はば一切の伝統を無視し、過去を問は
ないことにより、却って日本的な自己を生か
し切ったと言ふことが出来ます。」
・日本の進むべき方向
「私は宮沢賢治を前にして新しい日本の叡智が
進むべき方向を、一つの可能性として見出し、
未来に明るい光を見るやうな気がするのです。
あらゆるものが行きづまった、そのやうな日本
に於て、新に急旋廻してくる光明の方向はどん
なにか私たちの勇気を振ひ起させるかも知れま
せん。
・・・
私は彼が自身のうちに原始と終末とを持った、
唯永遠の現在であるとしてその作品に対するこ
とが最も賢明なものであると信ずるのです。」
・異常?感覚
「彼は億光年の太陽系外の事をもまるで、眼前
にあるもののやうに平然と且又十分な具体性を
以て受感し描出すことが出来ました。
これは時間と言ふことについても全く同様でし
た。彼は壮大な地質時代の時劫の流れを如実に、
体験として把握し彼自身が第三紀新生層の上に
生活し、思想し、自由に飛翔することが出来ま
した。
彼は人類を横の拡りとして確実に眺めることが
出来たと同様に、幾十万年の歴史的な流れとし
て人類を眺めています。
彼が空間と時間に対する受感に於て常人に勝る
深度と奔放さを持っていたことは確かに彼の作
品を不可思議なものに致しました。」
・宮沢賢治は語る
「これは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。
多少の再度の内省と分析とはあっても、たしか
にこの通りその時心象の中に現はれたものであ
る。故にそれはどんなに馬鹿げていても、難解
でも必ず心の深部に於て万人の共通である。
卑怯な成人達に畢竟不可解なだけである。」
・漱石と宮沢賢治、孤独の質
「宮沢賢治の孤高もレベルを絶した偉大な魂
の悩みとしては、漱石と同様なものに外なり
ませんでした。
けれど不思議な事に彼の孤高の精神は少なく
とも外面的には低俗な周囲との調和を失って
は居ません。ここに宮沢賢治の特異性があった
やうに思はれます。」
「彼(賢治)の孤独の精神が低俗への反発から
由来したのではないといふ事は、彼が人間性に
対する深い苦悩よりも自然科学的な修練の結果
としてその孤独の精神を抱いたことを意味して
います。
そしてその結果は彼の孤独性に得も言はれぬ寒
冷な部分を導入致しました。
夏目漱石の孤高は内的には惨憺たる自意識の格
闘があり、外的には周囲の低俗との激しい反発
に露呈していますが、その根源に於て人間性に
対する暖い愛を感じさせ、その愛が余りに清潔
であったための悲劇と解することが出来ます。
漱石の苦悩には暖いものがあふれているのです。
しかるに宮沢賢治の孤独は周囲の低俗とは調和
を保ちながら、実は徹底した冷たさを感ぜずに
は居られません。
人々は彼の孤独に於て人間性の底に横はる愛を
発見することは出来ないのです。
・・・
彼(賢治)の孤独は低俗に対する孤独ではなく
て、大きな自然の輪廻の中におかれた人類の心
の孤独と言ふことができます。」
・宮沢賢治は全ての人に理解され、全ての
人に理解されない。
「すべてのものに愛をそそぐといふことは
一面には明らかに誰をも愛さないといふに
外なりません。
・・・
私は眼前に宮沢賢治と相対したとしたらさ
ほど難解な人ではないと確信致しました、が
問題はこれだけでは解決しません。
・・・
彼の跡した業跡と風格を考へるとき、追へ
ども追へども尚不思議な未知の混沌を彼から
感ぜずには居られません。
・・・
私は彼(賢治)を攻撃する声は永遠に聴く
ことはないやうな気がします。」
・宮沢賢治と日本
「創造することは宿命に対する諦観を意味し
ました。
・・・
宮沢賢治には暗澹とした苦渋はありません。
彼の作品には冷く鋭い感覚が自然の風物と
交流し、途方もない空想と奇抜な大らかな
構想は、精神の世界から離れた不思議な安
堵さを感じさせました。
・・・
もし創造という言葉が冠せられるとしたら、
彼の作品程その名にふさはしいものはなか
ったでせう。彼の作品は徹頭徹尾無からの
生成に外なりません。
・・・
彼に取ってはあらゆるものは本質的に善で
も悪でもありませんでした。
・・・
彼は真善美をも彼の作品に中に示しません。
・・・
彼の作品は「ただ行はれる巨きなもの」で
した。
・・・
彼が人類の幸福を言はうが、実在を否定し
やうが少しも無理な感じを伴ひません。
それは彼が足を地から離して流転している
からなのです。彼の思想の場が何処に変ら
うと、それは唯彼の一つの相を現はしてい
るに過ぎないのです。
・・・
私は苦悩を背負ひ切れなくなったとき彼の
ふところに帰って行くやうでした。けれど
彼は苦悩を解いて呉れる人ではないことを
私は知りました。
・・・
彼の門はつねに開いているのですが余りに
高く到底私には這入れる門ではありません
でした。
・・・
私の青春期初期の貴重な幾年かは宮沢賢治
との連続的な格闘に終始しました。
・・・
宮沢賢治には祖国がない。けれど彼が日本
の生んだ永遠の巨星であることは疑ふべく
もありませんでした。
彼の非日本的な普遍性に対して私は考へつ
づけました。
・・・
そして私は終に一つの結論に達しました。
それは独創することは彼の場合には一つの
宿命への諦観を意味したのだといふ一事で
した。
彼は一切の伝統をしりぞけ、既成の思想や
手法をしりぞけ、新たに自己の一点から創
造するときに、それが歴史的な生命と必ず
や一縷の繋りを示すことが出来ることを彼
が体認していたといふ事なのです。」
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職業として、人造宝石の製造・販売を考えて
いた宮沢賢治。
年譜より
1896(明治29)岩手県花巻市に生まれる(長男)
1909(明治42)花城尋常高等小学校卒業。
6学年全甲、優等賞、精勤賞。県立盛岡中学入学。
1912(16歳、明治45,大正元年)
父あてに
「小生はすでに道を得候。歎異鈔の一頁を以て
小生の全信仰と致し候」と書く。
1914(18歳、大正3年)
看護婦に恋し、父に結婚の許可を求めて
戒められる。
島地大等編著「漢和対照妙法蓮華経」に感動。
1915(19歳、大正4年)盛岡高等農林学校に首席入学。
1916(20歳、大正5年)寮の部屋から法華経をあげる
賢治の力強い声が毎朝流れたという。
1918(22歳、大正7年)徴兵検査第二乙種で兵役免除。
1920(24歳、大正9年)
保阪あて書簡に
「世界唯一ノ大導師日蓮大上人」の「御命ニ
従ッテ起居決シテ御違背申シアゲナイコト」を
誓う。
1921(25歳、大正10年)家出決行。国柱会を訪れる。
本郷菊坂に下宿。出版社でアルバイトをしながら
創作に励み、これを「法華文学」と称した。
12月、雑誌「愛国婦人」に童話「雪渡り」その一
を発表、5円もらう。これが生前得た唯一の
原稿料といわれる。
1923(27歳、大正12年)一月、上京、本郷に下宿中
の清六に大トランクにつめた原稿を東京社へ持参
させるが、出版をことわられる。
1925(29歳、大正14年)
「多分は来春はやめてもう本当の百姓になります」
と手紙にかく。
1926(30歳、昭和元年)花巻農学校を依願退職。
十二月、上京、上野図書館で学習、タイプライター。
オルガン、エスペラント、セロを習う。
1931(35歳、昭和6年)嘱託技師として連日各地の
農業組合、肥料店を訪ねて宣伝につとめる。
9月、壁材料の宣伝・販売のため上京、たちまち
発熱し臥床する。死を覚悟し遺書を書く。
11月、「雨ニモマケズ」を手帳に書く。
1933(37歳、昭和8年)9月21日13:30永眠
<早すぎた信仰>
「おもうに宮沢賢治は、いちどもよく遊び、
ほかの子供たちと悪戯をやっては、侵犯する
こころを父母に叱られたり、きれいな女性に
胸をときめかして恋愛し、やがて結婚して、
楽しい生活をしようという発想をとったこと
はなく、開放されないこころの殻をやぶらな
いままに、宗教的な歓喜、有頂天、恍惚のと
ころまで登りつめてしまった。
・・・
世間知が足りない、経験からみちびいた叡智
がない。欲望のデカダンスを知らなすぎる。
・・・
きまじめな優等生の子どもが、やがて人なみ
の生活にめざめてゆく過程をたどる以前に、
とても早急にまた深く、信仰にとらえられて
しまった。」
<銀河鉄道の夜>
「言葉がつくりだした機能の<意味>と存在の
<意味>のあいだには、いくつもの階層がある
にちがいない。宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で
やっていることは、この階層のそれぞれから放
射される多様な次元の<意味>を与えることだ
といえよう。
ジョバンニの父は存在の意味がなくて、<不在>
だし、作品に登場するほかの人物の言葉や行動
の描写の機能によってだけ意味づけられている。」
<無償の質>
「宮沢賢治の作品には、自在にのびちぢみし、
角度をかえながら景物にしみとおってゆく視線、
またその視線の全体を生と死の境界の向う側か
ら統御している眼がある。
わたしたちはそこに、物の像の恐怖や、蒼く暗
い色彩や、黄や白や灯火や星のような、きらきら
した花の色彩をみたりする。また宝石の硬質な
きらびやかなかがやきをみることもある。だが
視線のなかにいるかぎる言葉の意味は忘れられ
ている。
いちばんおわりのおさえ方をすれば、言葉で
つづった作品にはかならず意味がきっとつきま
とっていて、それからは逃れられない。言葉が
よびおこす像(イメージ)にじゅうぶん拮抗
しながら、同時に意味の官能をかれの作品に
あたえているのは、独特な無償の質と、それを
倫理へ組みかえ、もしかすると宗教的な情操の
要請にまでもっていくひとつの力能だとおもえ
る。」
<猫の事務所>
「宮沢賢治は、よいこころをもって振舞うのに、
まわりから侮蔑されたり、軽くあしらわれたり、
うとまれたりする生きものの姿を、すくなくと
もふたつの作品で描いている。
ひとつは「猫の事務所」のかま猫で、もうひと
つは「よだかの星」のよだかだ。」
「「猫の事務所」と「よだかの星」とで、もひと
つ関心をひかれることがある。それは宮沢賢治の
視線にある救いの構造ではなくて、関心の構造と
もいうべきものだ。
かま猫とよだかにあたえられた資質と境遇は、宮
沢賢治がつよい関心をもった登場人物(動物)の
ひとつの類型になっている。
ひとつの共通点は気が弱く片隅にちぢこまって、
まわりの言うままにうごかされて、おどおどいじ
けている存在だ。・・・・
いってみれば「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」と
いう消極的な存在と境涯にあるものといっていい。
・・・
宮沢賢治が関心をよせ救いを願い、じぶんもまた
その場所にゆき、それらとおなじでありたいと
おもったのも、そういう存在だった。」
<なめとこ山の熊>
「熊捕りの名人小十郎と「なめとこ山の熊」たち
の関係は、猟師と獣の関係で、殺したり殺されたり
する。だが好きあった気ごころのしれたあいだがら
になっている。」
猟師は、生活のために熊を殺している。ある時、
熊と対面する。熊は2年、待ってくれという。
2年後、熊は約束を守り、猟師の家の前でじぶん
から死んで約束を履行する。
その後、猟師は、べつの熊に殺される。
「おお、小十郎おまへを殺すつもりはなかった」
という熊の声を小十郎は聞いた。
<めくらぶだうと虹>
「「アリヴロンと少女」と「めくらぶだうと虹」
は、同原異稿の枝わかれ作品だ。・・・
「めくらぶだうと虹」では、地をはう低く動け
ないめくらぶだうと、空の高みにかかるきれい
な虹のあいだにうらやましさが交換される。
束の間のいのちしかない虹が、めくらぶだうの
いのちの永さをあげ、ひくく地面をはうめくら
ぶだうは高く空にかがやき、草や花や鳥がたた
える虹の姿をうらやみ、いっしょにいきたいと
うったえる。だが虹はそれにこたえないうちに
消えかかる。」
<小岩井農場>
「彼(賢治)には性欲の抑圧や昇華はあったろうが、
性や恋愛にまつわる挫折はない。また宗教的な願望
に固執するあまり、生涯の生活を挫折させたとはい
えるが、生活の挫折のあげく宗教の救済感に変態し
たことはなかった。そうかんがえていいはずだ。
わたしたちは宮沢賢治の心理と生理の発達史を掘り
おこして、かれの意識と無意識のドラマを見つけだ
そうとしても、ガードがあまりにもかたくて、不可
能にちかい。
・・・・
(「小岩井農場」は)宮沢賢治のもつ感性と理念を
綜合したひとつの世界を、まるでクロマトグラフィー
で分離したように、はっきりと要素にわけて展開し
ている。その意味ではかれの詩のなかでいちばん有
機的な生命と理念を語る作品だといえる。」
<擬音>
「宮沢賢治ほど擬音のつくり方を工夫し、たく
さん詩や童話に使った表現者は、ほかにみあた
らない。
・・・・
かれは幼童をよろこばせるために童話を書いた
のではない。また幼童が好きだという理由で童
話を書いたのでもない。またかれ自身が幼童性
をもった未熟なこころだから童話を書いたので
もない。
仏教の信仰による幼童の教化というモチーフは
あったかもしれないが、それもじぶんが内がわ
から燃焼して白熱すると、じぶんでこわしてし
まっている。ただかれは、普遍的な年齢のため
の童話という矛盾を書く必然(宿命)をもって
いた。そしてこれだけがかれの擬音に、理念の
意味をあたえた。」
<擬音2ー神の如き童貞のエロスとして>
「もしかすると作者がエロスを遂げようとする
無意識の語音のようにもおもえる。
体内から精液を一滴ももらしたことがなかった
ものは、世界にじぶんをふくめて三人しかいな
いと知人に語ったという伝説が、宮沢賢治には
ある。
もしエロスの情感が性ときりはなされて普遍化
でき、その普遍化が幼童化を意味するとすれば、
まずいちばんに擬音の世界にあらわれるとは
いえそうな気がする。」
<地名・人名の造語>
「宮沢賢治は地名や人名を作品のなかでたくさん
造語した。
・・・
賢治の造語した人名と地名は度外れにおおいし、
度をこして徹底していた。それははるかに趣向の
境界をこえていた。
・・・
「あらゆる事が可能である」ためには、ほんとは
あらゆる実在の場所や、じっさいのこころのうご
きに無縁でなくてはならない。だがそれは不可能
だ。
わたしたちの命名はどれもじっさいの場所と、こ
ころのうごきとにどこかで、何かの経路でつなが
らなくては可能でないからだ。
・・・
たとえば、イートハーブという地名造語は岩手県
地方の暗喩といえるし、ハーナムキヤという地名
は花巻の暗喩だし、モーリオ市という地名は盛岡
の暗喩だ。
・・・
ペンネンネンネンネン・ネネムとかケンケンケン
ケンケンケン・クエクとかいう人名になるとそれ
は人名の物語化だといえよう。
・・・
造語の世界は、純粋に魔術的な世界だといえる。」
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いちばんばかで、
めちゃくちゃで、
まるでなっていないようなのが、
いちばんえらい。
宮沢賢治「どんぐりと山ねこ」より
どんぐりのえらさを決める裁判で、一郎が言ったこと。
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十代、学生寮の天井には、墨でかいた
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を貼った。
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「鴎外とか漱石とかいう人たちは文学者としても、
人間としても、立派な人でありました。
偉人と呼んでいい人でありました。しかし、私は
鴎外の墓の前にも、漱石の墓の前にも、
本当にへりくだった心をもって跪(ひざまず)きたい
とは考えません。
しかし、賢治の墓の前には私は跪きたい。」(谷川徹三)
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク
決シテイカラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト 少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲ カンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテ
コハガラナクテモ イイトイヒ
北ニケンカ ヤ ソシヨウガアレバ
ツマラナイカラ ヤメロトイヒ
ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ
サムサノ ナツハ オロオロアルキ
ミンナニ デクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
ソウイフモノニ
ワタシハ ナリタイ」
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