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「人生の鍛錬」小林秀雄

<解る>
「凡(およ)そものが解るという程不可思議な
事実はない。解るという事には無数の階段があ
るのである。」(「測鉛」)

<批評>
「批評とは生命の獲得ではないが発見である。」
(同上)

<溌剌たる尺度>
「「自分の嗜好に従って人を評するのは容易な
事だ」と、人は言う。然し、尺度に従って人を
評する事も等しく苦もない業である。
常に生き生きとした嗜好を有し、常に溌剌(は
つらつ)たる尺度を持つという事だけが容易で
はないのである。」
(「様々なる意匠」)
<自分>
「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて
来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもな
れたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は
彼以外のものにはなれなかった。これは驚く
可き事実である。」

<男女>
「俺の考えによれば一般に女が自分を女だと
思っている程、男は自分は男だとは思ってい
ない。・・・
惚れるというのは言わばこの世に人間の代りに
男と女とがいるという事を了解する事だ。
女は俺にただ男でいろと要求する、俺はこの
要求にどきんとする。」
(「Xへの手紙」)
<感心>
「感心することを怠りなく学ぶ事。感心するにも
大変複雑な才能を要する。感心する事を知らない
批評家は、しょっ中無けなしの財布をはたいている
様なものだ。」
(「断想」)

<思想>
「あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生れて
育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかった
ならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。」
(「作家の顔」)
<天才文学者>
「僕が会った文学者のうちでこの人は天才だと
強く感じる人は志賀直哉と菊池寛とだけである。」
(「菊池寛論」)

<成熟>
「人間は自分の姿というものが漸次よく見えて来
るにつれて、自己をあまり語らない様になって来
る。これを一般に人間が成熟して来ると言うので
ある。
・・・
己れを知るとは自分の精神生活に関して自信をもつ
という事と少しも異った事ではない。自信が出来る
から自分というものが見えたと感ずるのである。」
(「文科の学生諸君へ」)

<男と女>
「女というものにはとてもかなわない、男は
誰でも腹の底ではそう思っている、思っている
というより殆(ほとん)ど動物的な本能から
それを感じている。
男にはとてもかなわないと女は言うが、それは
ほんの世俗的な意味で言うので、腹の底では
男なんかなめているに相違ない、と男は感じて
いるのである。
もっともこういうことは未だ男を知らない女に
は決して解らない。
男だって未だ女を知らないうちは、自分の心の
うちに女性恐怖の本能があるなどという事は
決してわからない。」
(「女流作家」)

<読書>
「僕は、高等学校時代、妙な読書法を実行していた。
学校の往き還りに、電車の中で読む本、教室でひそか
に読む本、家で読む本、という具合に区別して、いつ
も数種の本を平行して読み進んでいる様にあんばいし
ていた。
まことに馬鹿気た次第であったが、その当時に常軌を
外れた知識欲とか好奇心とかは、到底一つの本を読み
おわってから他の本を開くという様な悠長な事を許さ
なかったのである。」
(「読書について」)

<文は人なり>
「読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という
言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するの
には、全集を読むのが、一番手っ取り早いしかも確実
な方法なのである。」
(「読書について」)
<小林秀雄、文章作成術>
「評論を書き始めて暫くした頃、僕は自分の文章
の平板な点、一本調子な点に不満を覚えて来た事
がある。
・・・・
仕方ないから、丁度切籠(きりこ)の硝子玉でも
作る気で、或る問題の一面を出来るだけはっきり
書いてごく短い一章を書くと、連絡なぞ全く考え
ずにまるで反対な面を切る気持ちで、反対な面か
ら眺めた処を又出来るだけはっきりした文章に
作り上げる。
こうした短章を幾つも作ってみた事がある。
だんだんやっているうちに、こういう諸短章を
原稿用紙に芸もなく二行開きで並べるだけで、
全体が切籠の硝子玉程度の文章にはなる様になった。
そんな事を暫くやっているうちに、玉を作るのに
先ず一面を磨き、次に反対の面を磨くという様な
事をしなくても、一と息でいろいろの面が繰り
のべられる様な文が書ける様になった。」
(「文章について」)
<自信>
「自信というものは、いわば雪の様に音もなく、
幾時(いつ)の間にか積った様なものでなければ
駄目だ。
そういう自信は、昔から言う様に、お臍(へそ)
の辺りに出来る、頭には出来ない。」
(「道徳について」)
<歴史>
「歴史は精しいものほどよい。瑣事(さじ)と
いうものが持っている力が解らないと歴史とい
うものの本当の魅力は解らない様だ。」
(「維新史」)

<書く>
「拙(まず)く書くとは即ち拙く考える事である。
拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきり
すると言っただけでは足らぬ。
書かなければ何も解らぬから書くのである。」
(「文学と自分」)
<才能>
「本当に才能のある人は、才能を持つ事の
辛(つら)さをよく知っている。」
(「カラマアゾフの兄弟」)
<信>
「限度を超えて疑うものは信ずるに到る。」
(「モオツァルト」)

<不平>
「不平家とは、自分自身と決して折合わぬ
人種を言うのである。」
(「モオツァルト」)
<ランボオ>
「僕が、はじめてランボオに、出くわした
のは、二十三歳の春であった。
その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、
と書いてもよい。向こうからやって来た見
知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたの
である。
僕には、何んの準備もなかった。ある本屋
の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の
「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、ど
んなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、
僕は夢にも考えてはいなかった。」
(「ランボオ」)
<職業>
「私は、書くのが職業だから、この職業に、
・・・深入りしております。深入りしてみる
と、仕事の中に、自ら一種職業の秘密とでも
言うべきものが現れて来るのを感じて来る。
・・・
私は、自分の職業の命ずる特殊な具体的技術
のなかに、そのなかだけに、私の考え方、私
の感じ方、要するに私の生きる流儀を感得し
ている。かような意識が職業に対する愛着で
あります。」
(「私の人生観」)
<文化>
「文化という言葉は、本来、民を教化する
のに武力を用いないという意味の言葉なの
だが、それをcultureの訳語に当てはめて
了ったから、文化と言われても、私達には
何の語感もない。
・・・
cultureという言葉は、極く普通の意味で
栽培するという言葉です。
・・・
国際文化などというのは妄想である。意味
をなさぬ。」
(「私の人生観」)
<眼の力ー日本を見る>
「何と言っても近代文学は西洋の方が偉い
です。しかし物を見る眼、頭ではない、視
力です。これを養うのは西洋のものじゃだ
め、西洋の文学でも、美術でも、眼の本当
の修練にはならない。
日本人は日本で作られたものを見る修練を
しないと眼の力がなくなります。・・・
例えば短歌なんかやっている方は、日本の
自然というものを実によく見ている。
眼の働かせ方の修練が出来ているという感
じを受けますが、西洋風な詩を作る詩人の
ものを読むと、みな眼が駄目です。」
(「古典をめぐりて」)
<ベルグソンの哲学>
「彼の思想の根幹は、哲学界からはみ出して
広く一般の人心を動かした所のものにある、
即ち、平たく言えば、科学思想によって危機
に瀕した人格の尊厳を哲学的に救助したとい
うところにあるのであります。人間の内面性
の擁護、観察によって外部に捕えた真理を、
内観によって、生きる緊張の裡に奪回すると
いう処にあった。」
(「表現について」)
<表現>
「生活しているだけでは足りぬと信ずる処
に表現が現れる。表現とは認識なのであり
自覚なのである。いかに生きているかを自
覚しようとする意志的な意識的な作業なの
であり、引いては、いかに生くべきかの実
験なのであります。」
(「表現について」)
<音楽>
「音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の
耳の能力に驚嘆する事だ、そしてそれは
自分の精神の力に今更の様に驚く事だ。」
(「表現について」)
<音声>
「人間は、その音声によって判断できる、
又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の
言葉を喋(しゃべ)るが、喋る声の調子
の差違はいかんともし難く、そこだけが
その人の人格に関係して、本当の意味を
現す、・・・」
(「年齢」)
<美しい形>
「風景に対する愛や信頼がなければ、風景
画家に風景というものは存在しない。
・・・
かくの如きが、美しい形の持つ意味なので
あり、意味を欠いた美しい形は、忽(たち
ま)ち安定を失う。」
(「金閣滅亡」)
<説得>
「人間は他人を説得しようなどと思わぬ
人間にしか決して本当には説得されない
ものである。」
(「マチス展を見る」)
<政治家>
「政治の対象は、いつも集団であり、集団
向きの思想が操れなければ、政治家の資格
はない。」
(「政治と文学」)
<悲劇>
「人間に何かが足りないから悲劇は起こる
のではない、何かが在り過ぎるから悲劇が
起るのだ。否定や逃避を好むものは悲劇人
たり得ない。
何も彼も進んで引受ける生活が悲劇的なの
である。」
(「悲劇について」)
<いじめ>
「空虚な精神が饒舌(じょうぜつ)であり、
勇気を欠くものが喧嘩を好むがごとく、自足
する喜びを蔵しない思想は、相手の弱点や欠
点に乗じて生きようとする。」
(「政治と文学」)
<トルストイを読み給え>
「若い人から、何を読んだらいいかと
訊ねられると、僕はいつもトルストイを
読み給えと答える。すると必ずその他に
は何を読んだらいいかと言われる。
他の何にも読む必要はない、だまされた
と思って「戦争と平和」を読み給えと
僕は答える。
だが嘗(かつ)て僕の忠告を実行して
くれた人がない。実に悲しむべきことで
ある。
・・・・
文学入門書というようなものを信じては
いけない。途方もなく偉い一人の人間の
体験の全体性、恒常性というものに先ず
触れて充分に驚くことだけが大事である。」
(「トルストイを読み給え」)
<絶望>
「他人にはどんなに奇妙な言草(いいぐさ)と
聞こえようと自分は敢(あ)えて言う、自分は
絶望の力を信じている、と。
若(も)し何かが生起するとすれば、何か新し
い意味が生ずるとすれば、ただ其処からだ。」
(「「白痴」について」)
<無私>
「先ず何を置いても、全く謙遜に、無私に
驚嘆する事。そういう身の処し方が、ゴッホ
の様な絶えず成長を止めぬ強い個性には、
結局己れを失わぬ最上の道だったのである。」
(「ゴッホの手紙」)
<教養>
「ノーベル賞をとる事が、何が人間としての
価値と関係がありましょうか。
私は、決して馬鹿ではないのに人生に迷って
途方にくれている人の方が好きですし、教養あ
る人とも思われます。」
(「読書週間」)
<観察される>
「怠け教師としての十年の経験で、青年の
向上心を、こちらが真っ直ぐに目指し近づく
時に、青年は一番正直に自分を現す、という
事を教わったように思う。
青年は観察されることをきらう。観察されて
いると知るや、すぐ仮面をかぶる。
その点で、青年ほど気難かしく、誇り高いも
のはない。青年は困難なものと戦うのが
最も好きだ。」
(「教育」)
<作文教育>
「作文教育でも、正確な写生文というものを
基本とすべきである。写生の対象は、外部に
あるはっきりした物に置くがよく、無定形な
自分の心などというものを書かせるべきでは
ない。そんな事が上手になると、生徒は思い
つきのなかに踏み迷う事が楽しくなり、遂に
自分の個性を信じなくなるだろう。」
(「民主主義教育」)
<立派な芸術>
「立派な芸術というものは、正しく、豊かに
感ずる事を、人々に何時も教えているもの
なのです。」
(「美を求める心」)
<好き>
「一冊の書物を三十年間も好きで通せば、た
だの好きではない。そういう好きでなければ
持つ事の出来ぬ忍耐力や注意力、透徹した認
識力が、「古事記伝」の文勢に、明らかに
感じられる。
・・・
私達は、好き嫌いの心の働きの価値を、ひど
く下落させてしまった。」
(「好き嫌い」)
<考える>
「彼(本居宣長)の説によれば、「かんがふ」
は、「かむかふ」の音便で、もともと、むか
えるという言葉なのである。
・・・
「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」
は「交ふ」であると解していいなら、
考えるとは、物に対する単に知的な働きでは
なく、物と親身に交わる事だ。」
(「考えるという事」)
<批評とは讃辞である>
「自分の仕事の具体例を顧(かえりみ)ると、
批評文としてよく書かれているものは、皆他
人への讃辞であって、他人への悪口で文を成し
たものはない事に、はっきりと気づく。
そこから率直に発言してみると、批評とは人を
ほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。
人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、
批評精神に全く反する精神的態度である、と
言えそうだ。」
(「批評」)

<焼き物>
「焼き物は、見るものではない、使うものだ。
これは解り切った話だが、私の経験では、解り
切った話を合点するのには、手間がかかった。
いい盃だと思って買って来る。呑んでいるうち
に、いやになる。今度は、大丈夫だろうと思って
買って来る。成る程、呑んでいても欠点は現れて
来ない。だが、何となく親しめない。
そのうちに、誰かにやってしまう。
そんな事を、長い間、くり返してきた。」
(「信楽大壺」)
<あはれ>
「「あはれ」とは、嘆きの言葉である。何かに
感動すれば、誰でも、ああ、はれ、と歎声を発
する。この言葉が、どんなに精錬されて、歌語
の形を取ろうとも、その発生に遡(さかのぼ)
って得られる、歎きの声という、その普遍的な
意味は失われる訳がない。
これが、宣長の「もののあはれ」の思想の、
基本の考えだ。」
(「感想」)

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「人間の建設」岡潔、小林秀雄

昭和40年(1965)の対談
<学問の基本、好きになること>
岡「人は極端になにかをやれば、必ず好きに
なるという性質をもっています。」

<数学と感情>
岡「数学は知性の世界だけに存在しえないと
いうことが、四千年以上も数学をしてきて、人は
はじめてわかったのです。」

岡「最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか
思えない二つの命題をともに仮定しても、それが
矛盾しないという証明がでたのです。」

岡「知性や意志は、感情を説得する力がない。
ところが、人間というものは感情が納得しなけ
れば、ほんとうには納得しないという存在らしい
のです。」

<日本人>
岡「私は日本人の長所の一つは、時勢に合わない
話ですが、「神風」のごとく死ねることだと思い
ます。あれができる民族でなければ、世界の滅亡
を防ぎとめることはできないとまで思うのです。
あれは小我を去ればできる。小我を自分だと思って
いる限り決してできない。
・・・
欧米人にはできない。欧米人は小我を自分だとしか
思えない。いつも無明がはたらいているから、真の
無差別智、つまり純粋直観が働かない。従って、
ほんとうに目が見えるということはない。
欧米人の特徴は、目が見えないが、からだを使う
ことができる。・・・
欧米人の特徴は運動体系にある。」

小林「あなた、そんなに日本主義ですか。」

岡「純粋の日本人です。いま日本がすべきことは、
からだを動かさず、じっと座り込んで、目を開いて
何もしないことだと思うのです。
日本人がその役割をやらなければだれもやれない。
これのできるのは、いざとなったら神風特攻隊の
ごとく死ねる民族だけです。
そのために日本の民族が用意されている。」

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やまと魂

「やまと魂」「やまと心」の出典

<「やまと魂」の初見は源氏>
源氏の中に「大和魂」の用例は一つ、
「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、
強う侍らめ」(乙女の卷の、光源氏の言葉)
(学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く
働かす事も出来る)

<「やまと心」の初見は赤染衛門の歌(後拾遺和歌集)>
「さもあらばあれ、大和心し賢くば細乳に附けて
あらすばかりぞ」赤染衛門の歌(後拾遺和歌集)
(大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて
置いて、一向差支えないではないか)
ここでの「やまと心」は、賢い、智識などへの
掛かり言葉として使われている。
(小林秀雄「本居宣長及び補記」)

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書けない感動は逆上にすぎない

「感動は心にとどまって消えようとせず、しかも
その実在を信ずるためには、書くという一種の労
働がどうしても必要のように思われてならない。
書けない感動などというものは、皆嘘である。た
だ逆上したにすぎない、・・」(小林)

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モオツアルト

大阪、道頓堀の雑踏の中を歩いているとき突如と
頭の中に鳴り響いたト短調シンフォニー、それは
誰かがハッキリと演奏しているように鳴った。
脳味噌に手術を受けたように驚き、感動で慄えた、
と小林氏は云う。
「内容と形式との見事な一致というような尋常な言葉
では、言い現わし難いものがある。全く相異なる二つ
の精神状態のほとんど奇蹟のような合一が行われてい
るように見える。
名づけ難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時
に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現わすこと
ができるのだろうか。それがモオツアルトという天才
が追い求めた対象の深さとか純粋さとかいうものなの
だろうか。
本当に悲しい音楽とは、こういうものであろうと僕は
思った。」
「僕は、ハ調クワルテット(K.465)の第二楽章を聞い
ていて、モオツアルトの持っていた表現せんとする意
志の驚くべき純粋さが現われてくるさまを、一種の困
惑を覚えながら眺めるのである。」

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