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アリストテレス
賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求めるすべて優れた人間は憂鬱である。
Comments Offニーチェ
よいものは軽やかである毎日すくなくとも1回、なにか小さなことを断念しなけれ
ば毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。
キリスト教徒で、同時に芸術家であるものはいない
Comments Offパスカル
感情は理智の知らない真理を知っている。一生のうちでいちばん大事なことは、職業の選択である。
Comments Off私の理想(ニーチェ)
「私の理想は、目障りにならぬような独立性、それとわからぬ静かな誇り、つまり、他人の
名誉や喜びと競合せず、嘲弄にも耐えること
によって得られる、まったく他人に負い目の
ない誇りである。
このような理想が、私の日常の習慣を高貴な
ものにせねばならぬ。
低俗にならず、交際は欠かさず、欲はもたず、
静かに努力し、高く飛翔する。
自分自身のことは簡素で、つつましく、他人
にはやさしく。安眠と、軽やかな足取り、酒
は飲まず、王侯貴顕の輩とは付き合わず、女
と新聞に無関心、名誉を求めず、交際は最高
の精神の持主と、時折、下層の民衆(彼らは、
強靭で元気な植物を見るのと同じように、必
要である)に限り、ありきたりの食事で満足
し、意地汚く舌鼓を打つような連中の群れに
入らぬこと。食事はできれば自分でつくるの
がいいが、出来合いのものでもいい。」
(「遺された断想」)
私はデカルトを許せない(パスカル)
「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいもの
だと、きっと思っただろう。しかし、彼は世界を
動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせない
わけにいかなかった。それから先は、もう神に
用がないのだ。」
(パンセ-77) Comments Off
ニーチェと漱石
漱石の蔵書二千四百冊の中で、ニーチェの「ツァラトウストラ」への書き込みの量は、
ほかの作品におけるそれをはるかに
しのいでいる、とフラナガン氏(「日本人
が知らない夏目漱石」)は云う。
平川氏によれば、「草枕」は「「ツァラト
ウストラ(ニーチェ)」からのインスピレ
ーションから生まれたという。
女(ニーチェ)
「愛または憎しみと共演しないとき、女は凡庸な役者だ。」
「復讐と恋愛においては、女は男よりも
野蛮である。」
「女が学問的な傾向をもつのは、通常は
彼女にどこか性的に異常なところが
あるからだ。」
「脇役を演じる本能をもたないような
女は、化粧の天才をもたないであろう。」
悪とは
「悪とは、弱さに由来するすべてのもの」(ニーチェ) Comments Off
暴行への対処
ソクラテスは妻のクサンチッペにバケツの水をかけられた時、友人に、「何故、黙っているのか?」
という問いつめに、こう答えた。
「相手が人間だったら、私だって怒るよ」
「カトーが顔を殴られたとき、カトーはいきり立ちは
しなかった。侮辱に仕返しもしなかった。侮辱を
赦しもしなかった。彼はただ「侮辱などは全然
なかったよ」と言い切るのであった。」
(セネカ「賢者の毅然たる不動について」)
職業
「一生のうちで一番大事なことは、職業の選択である。」
(パスカル:パンセ-97)
「不道徳の最たるものは、自分の知らない
稼業をすることである。」
(ナポレオン)
<仕事探しに邁進せよ>
「貴方がたは、自分の個性が発展出来るような場所に
尻を落ち付けるべく、自分とぴたりと合った仕事を
発見するまで邁進しなければ一生の不幸である。」
(漱石)
「最も卓越した天分も、無為徒食によって
滅びる」(モンテーニュ)
「労働ほど人間を高尚にするものはない」
Comments Off知恵(モンテーニュ「エセー」)
「剛毅、信義、誠実が真の哲学であり、それ以外を目的とする学問は虚飾にすぎない」
(プラトン「アリストドロスへの手紙」)
「知恵のもっとも明白なしるしは、常に変わらぬ
喜悦であります。」(セネカ「書簡」59)
幸福論(ラッセル)
「幸福の不可欠な要素は、欲しいものをいくつかもっていることだ」
「大きな富みのおかげで、人間が努力しないでも
おのれの気まぐれを満足させられる場合は、生活
に努力が不要になったというだけで幸福の本質的
な成分が奪われてしまう。
格別強い欲望を感じていないものをやすやすと入
手できる人は、欲望を達成したって幸福はもたら
されない。」
私の理想(ニーチェ)
「私の理想は、目障りにならぬような独立性、それとわからぬ静かな誇り、つまり、他人の
名誉や喜びと競合せず、嘲弄にも耐えること
によって得られる、まったく他人に負い目の
ない誇りである。
このような理想が、私の日常の習慣を高貴な
ものにせねばならぬ。
低俗にならず、交際は欠かさず、欲はもたず、
静かに努力し、高く飛翔する。
自分自身のことは簡素で、つつましく、他人
にはやさしく。安眠と、軽やかな足取り、酒
は飲まず、王侯貴顕の輩とは付き合わず、女
と新聞に無関心、名誉を求めず、交際は最高
の精神の持主と、時折、下層の民衆(彼らは、
強靭で元気な植物を見るのと同じように、必
要である)に限り、ありきたりの食事で満足
し、意地汚く舌鼓を打つような連中の群れに
入らぬこと。食事はできれば自分でつくるの
がいいが、出来合いのものでもいい。」
(「遺された断想」)
やりたいことがわからない人たちへ(鷲田小弥太)
・人間は、どんなものをも好きになれる動物である。・「やりたいこと」を見つける最も確実なことは、い
ま与えられている課題をしっかりやることだ。
興味がない仕事でも、続ければおもしろくなる。
仕事が解ってくるからだ。しかし、解ったと思
った後から又、解らないことにぶつかる。
それらを、ひとつひとつクリヤーしてゆくと、
ある日突然、「やりたいこと」が姿を現してくる。
その反対に、「やりたいこと」をひたすら考えて
も、「やりたいこと」は姿を現さないのである。
なぜだろう?
一芸は万事に通じる、つまり、興味がないと思って
いる仕事に打ち込んでいるうちに”仕事”とは何か
ということが解ってくる。
そこまで行って、初めて、自分の「やりたいこと」
が、本当に考えられる”自分”を獲得するからで
ある。
「人は、なりたい自分になっている」という言葉が
ある。それは本当だ。しかし、それには一つだけ条
件がある。
「いま与えられている課題をしっかりやることだ。」
いきの構造(九鬼周造)
<「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である>「媚態は異性の征服を仮想的目的とし、
目的の実現とともに消滅の運命をもったもの
である。永井荷風(ながいかふう)が「歓楽」
のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情
(なさけ)無いものはない」といっているのは、
異性の双方において活躍していた媚態の自己
消滅によって齎(もた)らされた「倦怠、絶望、
嫌悪」の情を意味しているに相違ない。」
<「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である>
「「いき」のうちには溌剌(はつらつ)として
武士道の理想が生きている。「武士は食わねど
高楊枝(たかようじ)」の心が、やがて江戸者の
「宵越(よいごし)の銭(ぜに)を持たぬ」誇り
となり、更にまた「蹴(け)ころ」「不見転
(みずてん)」を卑(いや)しむ凛乎(りんこ)
たる意気となったのである。
「傾城(けいせい)は金でかふものにあらず、
意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓
(くるわ)の掟(おきて)であった。「金銀は
卑しきものとて手にも触れず、仮初(かりそめ)
にも物の直段(ねだん)を知らず、泣言(なき
ごと)を言はず、まことに公家大名(くげだい
みょう)の息女(そくじょ)の如し」とは江戸
の太夫(たゆう)の讃美であった。」
<「いき」の第三の徴表は「諦め」である>
「運命に対する知見に基づいて執着(しゅう
じゃく)を離脱した無関心である。・・・
要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、
流れのうき身」という「苦界(くがい)」に
その起原をもっている。そうして「いき」の
うちの「諦め」したがって「無関心」は、
世智辛(せちがら)い、つれない浮世の洗練
を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する
独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない
恬淡無碍(てんたんむげ)の心である。」
「「いき」の「諦め」は爛熟頽廃(らんじゅ
くたいはい)の生んだ気分であるかもしれない。
またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的
に獲得したものであるよりは社会的に継承した
ものである場合が多いかもしれない。
それはいずれであってもよい。ともかくも
「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、
「諦め」に基づく恬淡とが否(いな)み得な
い事実性を示している。
そうしてまた、流転(るてん)、無常を差別相
の形式と見、空無(くうむ)、涅槃(ねはん)
を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむ
かって諦めを説き、運命に対して静観を教える
宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうち
のこの契機を強調しかつ純化していることは
疑いない。」