art-tokyo

古典を残す(柳宗悦)

「先生(大拙)は早くから古典的禅籍を立派な
永久的な善本で出版することに熱意を注いで
来られた。・・・・
もとより、先生にとっては、本文が大切なので、原典を
吟味し、選択されたのはもとよりだが、書物としてこれ
が永久に保存されて、古典がこの地上に永く大切にされ
るように心入れをされているのである。
先生を禅の鴻学として尊ぶ人は大勢いるが、
先生の学者としての一生の半面に、こういう
善本の刊行への並々ならぬ熱意があることを
知っている人は少ないのではあるまいか。
・・・・
先生自身の本が粗末極まるものが多いのに
比べて大変面白い事実だと私(柳)には
思われてならぬ。
これにつけても、いつか先生の著作の
(少なくともその或るものを)善本にして
残すのは、われわれの仕事だとも感じられて
ならぬ。
・・・・
早くから、先生の学生の一人であった私は、
幾分なりとも東洋的自覚にたって、先生の
衣鉢の幾分かを継いで、先生の恩に報いたい
念いに強くかられる。」
(「春秋」1959 12 柳宗悦)

Comments Off

仏教の大意

<仏教の大意>
1946 4/23,24 宮中での講義

「大智は禅によって代表され、大悲は日本
浄土教においてその絶頂に達した・・
彼(大拙)は、・・華厳哲学における無限
相関の思想にもとづいて、大智と大悲の根源的
に一体なることを説きつつ、この二方面から
仏教全体をつかまえた。」
(「朝日ジャーナル1963 6/30 玉城康四郎)

Comments Off

サインと掛け軸

<サイン>
在家仏教教会記念講演(大阪)でのこと。
大拙氏がサインをするのを増谷氏が横から
見ていた。
「こう書いておりました。
いまだによく覚えております。

To do is my religion.
(善をなすのが私の宗教)

それからはっとおもって見ておりましたら、

The world is my home.
(世界は私の家)

と書きました。」

<掛け軸>
「鈴木先生の家に行ったとき、床の間に

「一日作さざれば一日食わず」

と西田幾多郎先生が書いたのを、たった一幅
掛けてあって、あとは飾りは何もなかったのを
、今でも覚えているのであります。」(増谷)

Comments Off

ショーペンハウアーと鈴木大拙

大拙は師、宗演のシカゴ講演でポール・ケーラスと
出会う。
ケーラスはショーペンハウアーに師事し、友人には
物理学者エルンスト・マッハがいた。
ケーラスの活動はアメリカにおけるジェイムズの
プラグマティズムの基礎をかためることになった。
ケーラスの書「仏陀への福音」の翻訳が、大拙の
処女出版となった。

ケーラスがもし、ショーペンハウアーに師事して
いなかったら、鈴木大拙に興味を示すことは
なかったかもしれない。

Comments Off

無心

「知を求めず、見を求めず、仏菩薩になろうと
ねがわず、平々凡々、木石のごとくにして、し
かも、そこから大慈大悲の大行動が開始せられ、
無功用の生活がつづけられる。」(法華経)

「周辺のない円相、これを無心といい、
また無念無想などともいう。」

「心を一点に留めたり、一物を見たり、
一事を知ったりして、一事一物一点の外
に出ることをわすれると、その知見は、
いずれも限られたものになって、自由の
はたらきが、そこから出てこない。
限られた一が、そのまま無限の全体であ
ることに、気がつかなくてはならぬ。」

「無心の代表的な表現として、彼(大拙)は
好んでつぎの句を引く。

「竹影、階(きざはし)を払って塵動かず、
月、潭底(たんてい)をうがって水に痕(あと)なし」

竹の葉がそよいで、その影を石段の上に
ゆるがすが、段の上の塵は少しも動かない。
また、月がふちの底をうがって影を落として
いるが、水にはそのあとかたもない。」

Comments Off

絵画

「古人は胸に万巻の書を収めておかぬと、本当の
絵はかけぬといった。美というものは、霊の面か
ら見るべきで、単なる抽象的美をのみ云々すべき
ではないのである。
それゆえ、床の間にかけるものは、何かの意味に
おいて、それを見る人々の霊性的向上に資すべき
でなくてはならぬのである。床の間は一種霊性的
向上の場所なのである。ただ美の鑑賞場ではない
のである。」

「西洋の絵はどこでも、壁の空間をふさぐことに
なっている。一種の飾りものにすぎない。」

「東洋では霊性的美の欠けたものを、本当の美と
は見ないのである。」

Comments Off

神道

「神道は元来が政治思想であって、厳密には、
宗教的信仰性のものでない。」

「神道が「それみずから」に初めて目覚めたのが
伊勢神道である。」

「神道がその根源的なるものとして、独自の立場
を維持せんとする諸直覚は、霊性的なものでなく
てむしろ情性の範疇に属するものである。
・・・・
何故に神道的直覚は情性的であるかというに、そ
れはまだ否定せられたことのない直覚だからであ
る。」

「神道には、集団的・政治的なものは十分にある
が、一人的なものはない。感性と情性とは、最も
集団的なるものを好むのである。
・・・・霊性的直覚は、孤絶性のものである。」

「神道は、宇宙生成論にその全面的意味を求めん
としているようである。」

Comments Off

親鸞

「一般の日本人の心に食い入る力をもっている
ものは何かと言うに、それは純粋他力と大悲力
とである。霊性の扉はここで開ける。
・・・・
純粋の他力教では、次の世は極楽でも地獄でも
よいのである。親鸞聖人は「歎異抄」でそう言
っている。これが本当の宗教である。」

「親鸞をもって、日本人は”霊性”に覚醒した。
霊性に覚醒した、ということは”自由”を得
たということであり、純粋にものが見えるよ
うになったということでもある。
霊性の日本的なるものは、浄土系思想と禅で
ある。そしてそれらは、東洋を、世界を動か
す思想である。
以下、”霊性”という言葉が解りにくければ
直観、或いは、芸術的感性と置き換えて読ま
れても構わない。」

Comments Off

弘法大師

「平安時代には、伝教大師や弘法大師を始め、
立派な仏教学者も仏教者もずいぶん出ている。
しかしわしは言う、日本人はまだ仏教を知らな
かった。」

「真言は或る意味では日本民族の宗教意識を握
っている。しかし真言の最も深いところはインド
的である。概念性に富んでいるので、日本人の
多数はそこまでは十分に到り得ない。」

Comments Off

源氏物語

「「源氏物語」のような文学的作品は世界にな
いと言うが、こんなもので日本精神が、それが
なんであるにしても、代表されては情けない。」

「享楽主義が現実に肯定せられる世界には、宗
教はない。」

Comments Off

茶 私の見方

「茶の極意に達せんとするには、
貧の何ものたるかを知らなくては
ならぬ。ただ貧を守るだけでは
駄目、貧の極意に徹しなくてはな
らぬ。貧に安んずるといってもい
けない。貧の哲学なるものを持た
なくてはならぬ。
貧の哲学が茶の哲学である。
貧の哲学は貧の極意に達する時
始めて会得せられる。
それなら貧の哲学とは何か。
貧の極意は、個(超對個)の意義
を看取するところに在る。貧とは
孤の義である、独りの義である。
「寥々たる天地の間、独立、何の
極まりかあらん」という詩がある。
この寥々、この独立に徹しなくて
はならぬ。天地の間、森羅万象の
中に在って而も寥々とは如何、極
まりなく展開して行く存在の真中
にいて、しかも独立するとは如何。
貧の極意をここに看破しなくては
ならぬ。茶の哲学はここに伏在す
るのである。
試みに茶碗を取り上げる。この茶碗
は「天上天下唯我独尊」底のもの
ではなくてはならぬ。この茶碗の外
に今一つあってはならぬ。二個の
同じ茶碗があっては、茶にならぬ。
茶に歴史的名器が貴ばれるのは、こ
の故である。
富める人には同じものを一つ以上も
持つことができよう。彼はこの器
で大宴会を催すことも可能である。
貧しきものには、一つのかけ茶碗
だけしかない。これで何もかも辨
ずるのである。この一が貧しきも
のの天地である、生活全貌である。
彼はこのかけ茶碗の中にその生涯
の全部を見るのである。
彼はかけがへを持たぬ。彼の生活
は絶対である。彼がこの茶碗を取り
上げて茶をすするとき、「寥々たる
天地」そのものがすすられるので
ある。
富める人はかけがへのきくものを
沢山所持している。即ち物をもって
いる。物は人でない。物には重複の
可能がある。人にはそれがない、
「唯我独尊」である。貧者にはこの
境涯がわかる。富者にはわからぬ。
彼は物を見る眼をもっているが、人
を見る心を持っていない。これは
貧でないとわからぬ。ただの貧では
いけない、貧の極意に徹しなくては
ならぬ。
この極意は一である。無一物の一で
ある。
茶は絶対の個一に徹するとき始めて
その真味を味わひ得ると、自分は考
える。富める者は、這裡の消息に
通じ得ぬ。
しかし茶は貧人よりも富者によりて
好かれるやうである。それにはわけ
がある。富者は茶によりて物も世界
から人に達したいと希ふのである。
人間には何れも自分の存在の奥底に
あるものに触れたいといふあこがれ
がある。このあこがれは多くの場合
無意識である。富者の場合には殊に
さうである。それでおのづから彼等
は茶に向ふ。人の発見をこれにより
て獲得したと考へるのである。固より
無意識であるが。
それ故、真の茶人は富者に媚びない。
貧しき者のかけ茶碗の中には、活きた
人がいる。これを作った人と、これを
用いる人とが対話している。かけ茶碗
は物でなくなる。これは使って茶を
飲む道具でなくて、茶を飲ませてくれ
る人である。生きたものの世界がここ
に開けて行く。
アメリカが全く機械の世界になって
行くのを気遣ふ者の心には、アメリカ
の富がすべてを物にする恐れがある
ことを忘れてはならぬ。
貧には、実際の生活の上において、
不便なことが多い。しかし貧の後に
はいつも人が動いている。この人を
閑却しないやうにしたい。ここに
東洋文化の或る一面の意義を認めて
よい。」

Comments Off

茶の哲学

「貧の哲学が茶の哲学である。
貧の哲学は貧の極意に達する時
始めて会得せられる。
それなら貧の哲学とは何か。

貧の極意は、個の意義を看取する
ところに在る。

「寥々たる天地の間、独立、何の
極まりかあらん」という詩がある。
この寥々、この独立に徹しなくて
はならぬ。天地の間、森羅万象の
中に在って而も寥々とは如何、極
まりなく展開して行く存在の真中
にいて、しかも独立するとは如何。
貧の極意をここに看破しなくては
ならぬ。

貧しきものには、一つのかけ茶碗
だけしかない。この一が貧しきも
のの天地である、生活全貌である。
彼はこのかけ茶碗の中にその生涯
の全部を見るのである。

富める人はかけがへのきくものを
沢山所持している。即ち物をもって
いる。物は人でない。物には重複の
可能がある。人にはそれがない、
「唯我独尊」である。貧者にはこの
境涯がわかる。富者にはわからぬ。

茶は絶対の個一に徹するとき始めて
その真味を味わひ得ると、自分は考
える。

貧しき者のかけ茶碗の中には、活きた
人がいる。これを作った人と、これを
用いる人とが対話している。かけ茶碗
は物でなくなる。
アメリカが全く機械の世界になって
行くのを気遣ふ者の心には、アメリカ
の富がすべてを物にする恐れがある
ことを忘れてはならぬ。」

「禅の茶道に通うところは、いつも物事を
単純化せんとするところに在る。この不必要
なものを除き去ることを、禅は究極実在の
直覚的把握によって成しとげ、茶は茶室内の
喫茶によって典型化せられたものを生活上の
ものの上に移すことによって成しとげる。
茶は原始的単純性の洗練美化である。」

Comments Off

霊性

「霊性の日本的なるものとは何か。自分の考
えでは、浄土系思想と禅とが、最も純粋な姿
でそれであると言いたいのである。
・・・・
神道にはまだ日本的霊性なるものがその純粋
性を顕していない。」

「日本的霊性の情性方面に顕現したのが、浄
土系的経験である。またその知性方面に出頭
したのが、日本人の生活の禅化である。
・・・
情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲
を指すのである。
・・・(そのことを最も明白にしているのは)
法然、親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は
悪によりても遮られず、善によりても拓かれざ
るほどに、絶対に無縁、即ち分別を超越してい
るということは、日本的霊性でなければ経験せ
られないところのものである。」

「禅が日本的霊性を表詮(ひょうせん)して
いるというのは、禅が日本人の生活の中に根
深く食い込んでいるという意味ではない。
それよりもむしろ日本人の生活そのものが、
禅的であると言ったほうがよい。」

「知性的分別や道徳的当為の世界にだけ
生きていては、どうしても宗教的・霊性的
無分別の直覚地の機微はわかりません。
それはなぜかというに、道徳や知性からは
霊性的なものは出てきません、そこには
いつも対象的なものがあるので、自由が
きかない、そうして霊性的直覚の法界は
絶対に自由な場所です。」

「鎌倉時代になって、日本人は本当に宗教、即
ち霊性の生活に目覚めたと言える。」

「親鸞をもって、日本人は”霊性”に覚醒した。
霊性に覚醒した、ということは”自由”を得
たということであり、純粋にものが見えるよ
うになったということでもある。
霊性の日本的なるものは、浄土系思想と禅で
ある。そしてそれらは、東洋を、世界を動か
す思想である。
以下、”霊性”という言葉が解りにくければ
直観、或いは、芸術的感性と置き換えて読ま
れても構わない。」

「なにか二つのものを包んで、二つのものが
ひっきょうずるに(結局)二つでなくて一つ
であり、また一つであってそのまま二つであ
るということを見るものがなくてはならぬ。
これが霊性である。
・・・・
霊性を宗教意識と言ってよい。
・・・・
即ち霊性に目覚めることによって初めて宗教
がわかる。」

「霊性は民族がある程度の文化段階に進まぬ
と覚醒せられぬ。
・・・・
霊性の覚醒は個人的経験で、最も具体性に富
んだものである。」

「精神が物質と対立して、かえってその桎梏
に悩むとき、みずからの霊性に触着する時期
があると、対立相克の悶えは自然に融消し去
るのである。これを本当の意味での宗教とい
う。」

Comments Off

古池や蛙とび込む水の音

この句は、芭蕉の師、仏頂和尚との対話から
生まれた。

仏頂和尚:世界が存在した以前に何が在るか。

芭蕉:蛙とび込む水の音

この対話の答えに、後に、初句、古池や、を
付加したものだった。

芭蕉の、この句は、「時間なき時間」を有する
永久の彼岸によこたわっている。

芭蕉の洞徹した「無意識」は、古池の静寂には
なくて、蛙のとび込む音にあった

Comments Off

華厳

「華厳は、たがいに融通し、たがいに浸透し、たが
いに関連し、たがいにさまたぐることなしという考
え方に基づく。
この一切の相依相関を説く哲学が正しく理解される
時に<愛>が目覚める。」
「大乗思想の最高頂に達したもので、印度的表現形
式の巧妙を極めたものを「華厳経」とする。」

「華厳というお経は、・・・一口でいえば、われら
の世界観の上に根本的転回を起こすのを趣意とする。」

つまり、二元論からの離脱である。

「普通の宗教は局部的奇蹟に重きを
おくが故に、宗教を迷信化する。
これに反して、華厳は自分らが世界と
考えているものに対して、全面的奇蹟
を演出する。故に迷信を容れる余地がない。
まして科学だの、唯物だのというそんな
概念化したものの入り込む針の穴ほどの
隙間もない。
こういうことになるのを本当の宗教生活
というのだ。」

「もし日本に何か世界宗教思想の上に
貢献すべきものを持っているとすれば、
それは華厳の教説に外ならないのです。

今までの日本人はこれを一個の思想として
認覚していたのですが、今後はこれを集団
的生活の実際面、即ち政治・経済・社会の
各方面に具現させなくてはならないのです。」

Comments Off

無為

「禅は無為を擁護したことは一度もない。」

Comments Off

知性とは

「知性は、そのあるべき場においては有用であるが、
それが宗教の全域を支配しようとする時には、生命
の源を枯渇させてしまう。」

Comments Off

無限とは

「有限なるものを離れて無限なるものはない。」

Comments Off

道とは

「道とは、完全な”悟り”である。」

Comments Off

平常心とは

「意識的でありながらしかも無意識であること、
これが<平常心>である。」

「意識を伴わないいわゆる無意識なるものは存在しない。」

Comments Off

禅とは

「禅は、仏教の精神もしくは真髄を相伝するという
仏教の一派であって、その真髄とは、仏陀が成就
した<悟り>を体験することにある。」

「禅の意図するところは、つねには智慧が眠っている
意識の奥底から、その智慧を喚び覚ますことにある。」

「禅は、ようするに、自己の存在の本性を見抜く術で
あって、それは束縛から自由への道を指し示す。」

「禅は、宗教感情を正しい道に導くものであり、知性
に生命を与えるものである。」

「浄土門では、<信>がすべてであるが、禅ではこれ
に反して<見>もしくは<知>の働きが強調される。
ただしこれは論理的思考、論証の意味ではなく、直観
的把握をいう。」

「禅が全ての宗教に勝るのは、絶対者(キリスト教で
あればキリスト)が、自分であり、他者(第三者)
ではない、ということにある。」

「インドの空想と思惟力とがシナの平常道に融合
して、それが日本にきて日本で成長したのだから、
いわばすべてご馳走のうまいところをみな吸いあ
げたと言ってよい。そうしてそれが一方では禅と
なり、他方では浄土系思想として現れ、念仏とし
て受入れられた。」

「剣道に禅が大いに関係するなどいうと、
西洋人は一体どういうわけか、禅は一種の
宗教ではないか、剣は何といっても人を殺
すもの、この両者に何の関係があるべきか、
禅は人殺しに何の役に立つのかと、大いに
いきり立って、つめよるのである。
ことに剣は、自分を忘れ、敵を忘れ、殺す
の、生かすのというような分別も何もない
ところから、発足しなくてはならぬなどと
いうと、当地の人たちは、けげんな顔つき
するのが普通である。」

「「敵を愛せよ」も悪いではあるまい。が、
始めから「敵」など認めないのが東洋的聖
者の態度だ。」

「大拙は言う、「仏教とキリスト教の間に
は大なる相似の点あり」、ただ禅だけがそ
の両者を繋ぎ、「宗教をして宗教たらしむ」
のである。
禅こと「宗教の極致」にいたる唯一の手段
なのである、と。」

Comments Off

「貧困」の信仰

「貧しいということ、すなわち世間的な事物、
富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人
の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、
最高の価値をもつものの存在を感じること、これが
”わび”を本質的に組成するものである。・・・・

「貧困」の信仰、おそらくは日本のような国には
極めてふさわしい道である。
西欧の贅沢品や生活の慰安物がわが国を侵す
ようになっても、なお、”わび”道に対するわれわれ
の憧憬の念には根絶し難いものがある。

知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めない
し、また、派手でもったいぶった思想の配列や
哲学大系のたてかたも求めない。
神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、
そして環境全体と同化して、それで満足すること
の方が、われわれ、少なくともわれわれのうちの
ある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なので
ある。」

Comments Off

空とは

「空」という言葉は、仏教では二つの意味をもつた
めに、混乱を招いている。まず、

一つは、全てのものは、永久性をもたない、
という意味であり、

もう一つは、
万物は「空(絶対者)」に根ざし、この根ざすとい
うことを十分理解する限り、それは実在する、とい
う意味であり、

禅においての「空」は、この意味である。

Comments Off

悟りとは

悟りとは、問いと自分が一体化することによって、問
う者が問題を解こうと努めなくとも解決がその一体性
から、おのずから生まれてくる状態である。
(大拙)

Comments Off

禅(鈴木大拙)

「自分の所存では、禅は一切の哲学および宗教の究極
するところである。
すべての知的努力は、もしそれが何か実際上の効果を
もたらすものであるとするならば、ついには禅に到らねば
ならぬ。否、むしろ禅から出発せねばならぬ。
一切の宗教的信仰もまた、もしそれが、いやしくもわれわれ
の実際生活において、有効に、かつ生き生きと働き得るも
のであることを立証しようというのなら、禅から生まれ出で
ねばならぬ。
だから禅は、必ずしも仏教徒の思想と生活の源泉であるに
とどまらない。」

Comments Off

戦争の仕方(鈴木大拙)

<降参は不名誉なことか>
「欧米人の戦争観は日本人のと違う。日本では
”人”を戦争の主体としているが、前者(欧米人)
に在りては戦争は”力”の抗争である。
それ故、力が尽きれば降参して、お互いに無益の
流血を避ける。・・・・
日本人の戦争は”力”の争いでなくて”人”の争
いであるから、どんなことがあっても降参せずに
自殺してしまう。それが名誉の戦死だということ
になる。欧米人の間では降参は恥辱でも何でもな
い、力のないのに抗争を続けるということは頗る
非合理である、この方がかえって人間的でないと
さえ考えられる。」

<日本人は何故、捕虜を虐待するのか>
「欧米人は”力”を中心に考える故、自ら非人格
的になる。それで、戦時における捕虜の取り扱い
については特別の規則が作られてある、人格の尊
重が説かれるのである。
日本人は”人”を相手とするのであるが、不思議
に人格を無視する。そうして捕虜はいくら虐待し
ても苛責しても惨殺しても構わないということに
している。」

Comments Off

鈴木大拙

「欧米人に禅が理解されるには少なくとも
200年はかかる」(鈴木大拙)

「禅は不純を嫌忌する。人生は芸術である。そして
完全の芸術のように、それは自己没却でなければな
らない。そこには一点努力の跡、あるいは労苦の感
情があってはならぬのである。」(鈴木大拙)

「悟りとは、問いと自分が一体化することによって、
問う者が問題を解こうと努めなくとも解決がその一
体性から、おのずから生まれてくる状態である。」
(鈴木大拙)

「「空」という言葉は、仏教では二つの意味をもつ
ために、混乱を招いている。まず、
一つは、全てのものは、永久性をもたない、
という意味であり、
もう一つは、
万物は「空(絶対者)」に根ざし、この根ざすとい
うことを十分理解する限り、それは実在する、とい
う意味であり、
禅においての「空」は、この意味である。」
(鈴木大拙)

「人間が、空なる存在を自覚する、ということが仏
教の、そして禅の、目的なのである。」
(鈴木大拙)

「禅が全ての宗教に勝るのは、絶対者(キリスト教
であればキリスト)が、自分であり、他者(第三者)
ではない、ということにある。」
(鈴木大拙)

「禅の意図するところは、つねには智慧が眠っている
意識の奥底から、その智慧を喚び覚ますことにある。」
(鈴木大拙)

Comments Off
« Previous Entries