ショーペンハウエル
無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。我々は、他の人たちと同じようになろうとして、
自分自身の四分の三を喪失してしまう。
大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。
Comments Off我々は、他の人たちと同じようになろうとして、
自分自身の四分の三を喪失してしまう。
大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。
Comments Offケーラスがもし、ショーペンハウアーに師事して
いなかったら、鈴木大拙に興味を示すことは
なかったかもしれない。
注:「孤独と人生」は以下の本に掲載されています。
「幸福について-人生論-」新潮文庫
「ショウペンハウアー全集11巻」(白水社)
「孤独と人生」(白水社)
「昔から多くの人々が所有、外面的な成功、
贅沢を求めて努力して来ましたが、私には
いつもそれらが実に卑しむべきものに思え
ました。」
(アインシュタイン)
<ショーペンハウエルの生活>
7〜8時の間に起床、季節に応じて寒又は温の
水浴、全身摩擦、眼を開いたまま水に頭を浸す。
自分で入れたコーヒーを飲む。
11時までは思索、執筆、読書。
正午に家政婦が来て時刻を知らせてくれる。
30分程度好きな笛を吹く。
13時、レストランへ行って昼食。食欲旺盛。
帰宅後、コーヒーを飲んで、1時間昼寝。
夕暮れに愛犬アートマン(宇宙精神)を連れ
て散歩。歩き方は若々しく、敏速。
太い竹のステッキを持ち、葉巻を吸う。
帰宅後、タイムズその他英仏独の新聞を読む。
音楽は好きで、ベートーヴェンのシンフォニーを
聴く時には微動もせず聴き入り、曲が終わると
他のくだらない曲によってその印象を壊さない
ためにすぐ立ち去った。
午後8〜9時にレストランで夕食、冷肉と赤ワイン。
帰宅後、長い桜のキセルで一服の煙草。
就寝前にウパニシャッドを読む。
寝室は決して暖めず冬でも窓を開けて寝た。
<部屋の風景>
部屋には、純金の釈迦像(キリスト教よりも仏教ファン
だった)、机上にはカントの胸像、長椅子の上には
ゲーテの油絵、四方の壁には、シェークスピア、
デカルト、クローヂウス、若い時の自分の肖像、近親者
の画像、さくさんの犬の絵。
<風貌>
ショーペンハウエルの風采は、背は普通、骨格頑丈、
胸広く、輝く青い瞳、薄赤いちじれた髪、整った鼻、
長く広い口、音声強大、手は細く敏活。
好男子とはいえなかったが人を惹きつける力があった。
黙然としている時はベートーヴェンの風があり、談話
に熱が入れば、ヴォルテールに似ていた。
お洒落で、人前に出るときはいつも盛装だった。
妻子もなく、同胞もなく、一人の友もない、厭世家は、
ワーグナー、ニーチェ、トーマスマン、トルストイ、
ハーディー、シュレジンガー
・・・等多くの、文学・芸術・哲学・理論物理学者に
影響を与えた。
「余は余の全生を通じて恐ろしく孤独を感じた。
そして常に嘆息して云った。今余に一人の友を
与えよと。願いは無駄だった。余は依然として
独りであった。しかし余は正直に云う。これ余
の悪い故ではない。その精神と心情とにおいて
人間と云い得る人ならば余は決して排斥もせず、
避けもしなかったのである。
しかし実際見出した者は役にも立たない奴か、
頭の悪い男か、心根のよくない、趣味の下等な
者より他になかった。」
「知るためには学ぶべきである。だが知るといっ
ても真の意味で知られるのはただすでに考えぬ
かれたことだけである。」
「生まれてから今日まで、自分は何をして
いるのか。始終何物かに策(むち)うたれ
駆られているように学問ということに齷齪
(あくせく)している。これは自分にある
働きができるように、自分を為上(しあ)
げるのだと思っている。
その目的は幾分か達せられるかも知れない。
しかし自分のしていることは、役者が舞台
へ出てある役を勤めているにすぎないよう
に感ぜられる。
その勤めている役の背後に、別に何物かが
存在していなくてはならないように感ぜら
れる。策(むち)うたれ駆られてばかりい
るために、その何物かが醒覚(せいかく)
する暇がないように感ぜられる。」
(「妄想」)
「今や、われわれは、ショーペンハウアーと
いう注目すべき人物の登場を、理解する。
・・・彼は、倫理学と芸術の、最深の根源的
諸問題に思いを致し、生存の価値という問題
を提起するのである。」
「ショーペンハウアーは、単純で、正直であ
る。・・・彼の用いるあらゆる概念の、何と
いう力に溢れたことか。・・・彼の叙述の中
には、何らの動揺も見られず、あるものは、
太陽の光がその上に輝いているとき、ざわめ
きもせず、もしくは軽やかさにさざ波を立て
る、そうした湖水の明るい深みである。彼は
ルターのように、粗く大きい。彼は今日に到
るまで、ドイツの散文家の中での最も厳しい
模範であり、如何なる者も、彼ほど真剣に、
言葉と、言葉が課する義務とを、考えたこと
はなかった。・・・学識ぶった抽象化をする
ことなく、哲学的な煩瑣な屁理屈をうんざり
するほど敷衍(ふえん)したり長々と縷説し
たりすることなく、生存の核心を改めて洞察
した彼の偉大さは、並々ならぬものである。
・・・ショウペンハウアーは、今日文化とし
て妥当しているすべてのものに、抵抗して立
つのである。ちょうどプラトンが、昔日ギリ
シャにおいて文化であったすべてのものに、
抵抗して立っていたように。」
(「哲学者の書」)
ショウペンハウエルの没後5年、ニーチェ
は古本屋で、彼の主著「意志と表象として
の世界」に出会う。
<出会った印象>
「どの行も、諦念と否認と断念とを叫んで
いた。それは、私に世界と生と私自身の心情
をきわめて壮大に映し出してくれる鏡にも似て
いた。そこでは、すべての利害得失をはなれ、
じっと見つめる太陽のごとき芸術のまなこが
私を凝視していた。
そこに、私は、病気と快癒、追放と隠れ家、
地獄と天国を見た。自己認識の必要が、いや
、自分自身をこなごなに粉砕する必要がある
という強烈な思いが私を襲った。」
<信頼できる哲学者、ショウペンハウアー>
「世の中には、ショーペンハウアーの著作の
最初のページを読んだだけで、この著者なら
最後のページまで通読し、著者の語る片言隻句
にも耳を傾けるだろうと、その瞬間に確信する
読者がいるものだが、私もその一人だった。
私の胸に彼に対する信頼の念が芽生えた。
私は、あたかも彼が私のために書いてくれた
ようにショーペンハウアーを理解した。」
(「反時代的考察」)