霊性
「霊性の日本的なるものとは何か。自分の考えでは、浄土系思想と禅とが、最も純粋な姿
でそれであると言いたいのである。
・・・・
神道にはまだ日本的霊性なるものがその純粋
性を顕していない。」
「日本的霊性の情性方面に顕現したのが、浄
土系的経験である。またその知性方面に出頭
したのが、日本人の生活の禅化である。
・・・
情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲
を指すのである。
・・・(そのことを最も明白にしているのは)
法然、親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は
悪によりても遮られず、善によりても拓かれざ
るほどに、絶対に無縁、即ち分別を超越してい
るということは、日本的霊性でなければ経験せ
られないところのものである。」
「禅が日本的霊性を表詮(ひょうせん)して
いるというのは、禅が日本人の生活の中に根
深く食い込んでいるという意味ではない。
それよりもむしろ日本人の生活そのものが、
禅的であると言ったほうがよい。」
「知性的分別や道徳的当為の世界にだけ
生きていては、どうしても宗教的・霊性的
無分別の直覚地の機微はわかりません。
それはなぜかというに、道徳や知性からは
霊性的なものは出てきません、そこには
いつも対象的なものがあるので、自由が
きかない、そうして霊性的直覚の法界は
絶対に自由な場所です。」
「鎌倉時代になって、日本人は本当に宗教、即
ち霊性の生活に目覚めたと言える。」
「親鸞をもって、日本人は”霊性”に覚醒した。
霊性に覚醒した、ということは”自由”を得
たということであり、純粋にものが見えるよ
うになったということでもある。
霊性の日本的なるものは、浄土系思想と禅で
ある。そしてそれらは、東洋を、世界を動か
す思想である。
以下、”霊性”という言葉が解りにくければ
直観、或いは、芸術的感性と置き換えて読ま
れても構わない。」
「なにか二つのものを包んで、二つのものが
ひっきょうずるに(結局)二つでなくて一つ
であり、また一つであってそのまま二つであ
るということを見るものがなくてはならぬ。
これが霊性である。
・・・・
霊性を宗教意識と言ってよい。
・・・・
即ち霊性に目覚めることによって初めて宗教
がわかる。」
「霊性は民族がある程度の文化段階に進まぬ
と覚醒せられぬ。
・・・・
霊性の覚醒は個人的経験で、最も具体性に富
んだものである。」
「精神が物質と対立して、かえってその桎梏
に悩むとき、みずからの霊性に触着する時期
があると、対立相克の悶えは自然に融消し去
るのである。これを本当の意味での宗教とい
う。」