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茶の哲学

「貧の哲学が茶の哲学である。
貧の哲学は貧の極意に達する時
始めて会得せられる。
それなら貧の哲学とは何か。

貧の極意は、個の意義を看取する
ところに在る。

「寥々たる天地の間、独立、何の
極まりかあらん」という詩がある。
この寥々、この独立に徹しなくて
はならぬ。天地の間、森羅万象の
中に在って而も寥々とは如何、極
まりなく展開して行く存在の真中
にいて、しかも独立するとは如何。
貧の極意をここに看破しなくては
ならぬ。

貧しきものには、一つのかけ茶碗
だけしかない。この一が貧しきも
のの天地である、生活全貌である。
彼はこのかけ茶碗の中にその生涯
の全部を見るのである。

富める人はかけがへのきくものを
沢山所持している。即ち物をもって
いる。物は人でない。物には重複の
可能がある。人にはそれがない、
「唯我独尊」である。貧者にはこの
境涯がわかる。富者にはわからぬ。

茶は絶対の個一に徹するとき始めて
その真味を味わひ得ると、自分は考
える。

貧しき者のかけ茶碗の中には、活きた
人がいる。これを作った人と、これを
用いる人とが対話している。かけ茶碗
は物でなくなる。
アメリカが全く機械の世界になって
行くのを気遣ふ者の心には、アメリカ
の富がすべてを物にする恐れがある
ことを忘れてはならぬ。」

「禅の茶道に通うところは、いつも物事を
単純化せんとするところに在る。この不必要
なものを除き去ることを、禅は究極実在の
直覚的把握によって成しとげ、茶は茶室内の
喫茶によって典型化せられたものを生活上の
ものの上に移すことによって成しとげる。
茶は原始的単純性の洗練美化である。」

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