茶 私の見方
「茶の極意に達せんとするには、貧の何ものたるかを知らなくては
ならぬ。ただ貧を守るだけでは
駄目、貧の極意に徹しなくてはな
らぬ。貧に安んずるといってもい
けない。貧の哲学なるものを持た
なくてはならぬ。
貧の哲学が茶の哲学である。
貧の哲学は貧の極意に達する時
始めて会得せられる。
それなら貧の哲学とは何か。
貧の極意は、個(超對個)の意義
を看取するところに在る。貧とは
孤の義である、独りの義である。
「寥々たる天地の間、独立、何の
極まりかあらん」という詩がある。
この寥々、この独立に徹しなくて
はならぬ。天地の間、森羅万象の
中に在って而も寥々とは如何、極
まりなく展開して行く存在の真中
にいて、しかも独立するとは如何。
貧の極意をここに看破しなくては
ならぬ。茶の哲学はここに伏在す
るのである。
試みに茶碗を取り上げる。この茶碗
は「天上天下唯我独尊」底のもの
ではなくてはならぬ。この茶碗の外
に今一つあってはならぬ。二個の
同じ茶碗があっては、茶にならぬ。
茶に歴史的名器が貴ばれるのは、こ
の故である。
富める人には同じものを一つ以上も
持つことができよう。彼はこの器
で大宴会を催すことも可能である。
貧しきものには、一つのかけ茶碗
だけしかない。これで何もかも辨
ずるのである。この一が貧しきも
のの天地である、生活全貌である。
彼はこのかけ茶碗の中にその生涯
の全部を見るのである。
彼はかけがへを持たぬ。彼の生活
は絶対である。彼がこの茶碗を取り
上げて茶をすするとき、「寥々たる
天地」そのものがすすられるので
ある。
富める人はかけがへのきくものを
沢山所持している。即ち物をもって
いる。物は人でない。物には重複の
可能がある。人にはそれがない、
「唯我独尊」である。貧者にはこの
境涯がわかる。富者にはわからぬ。
彼は物を見る眼をもっているが、人
を見る心を持っていない。これは
貧でないとわからぬ。ただの貧では
いけない、貧の極意に徹しなくては
ならぬ。
この極意は一である。無一物の一で
ある。
茶は絶対の個一に徹するとき始めて
その真味を味わひ得ると、自分は考
える。富める者は、這裡の消息に
通じ得ぬ。
しかし茶は貧人よりも富者によりて
好かれるやうである。それにはわけ
がある。富者は茶によりて物も世界
から人に達したいと希ふのである。
人間には何れも自分の存在の奥底に
あるものに触れたいといふあこがれ
がある。このあこがれは多くの場合
無意識である。富者の場合には殊に
さうである。それでおのづから彼等
は茶に向ふ。人の発見をこれにより
て獲得したと考へるのである。固より
無意識であるが。
それ故、真の茶人は富者に媚びない。
貧しき者のかけ茶碗の中には、活きた
人がいる。これを作った人と、これを
用いる人とが対話している。かけ茶碗
は物でなくなる。これは使って茶を
飲む道具でなくて、茶を飲ませてくれ
る人である。生きたものの世界がここ
に開けて行く。
アメリカが全く機械の世界になって
行くのを気遣ふ者の心には、アメリカ
の富がすべてを物にする恐れがある
ことを忘れてはならぬ。
貧には、実際の生活の上において、
不便なことが多い。しかし貧の後に
はいつも人が動いている。この人を
閑却しないやうにしたい。ここに
東洋文化の或る一面の意義を認めて
よい。」