文章読本
<水が来た>数ある文章読本の中で、最も印象に残っているのは
三島氏が「文章読本」で森鴎外について言及してい
るところです。
「料理の味を知るには、よい料理をたくさん食べる
ことが、まず必要であると言われております。
・・・
そこで私は、まず二種類の、非常に対蹠的な文章を
お目にかけるつもりである。一つは森鴎外の「寒山
拾得」・・・
(注:あと一つは、泉境花の「日本橋」)
<森鴎外の「寒山拾得」の一節より>
”閭(りょ)は小女を呼んで、汲立(くみたて)の
水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれ
を受け取って、胸に捧げて、じつと閭を見詰めた。
清浄な水でも好ければ、不潔な水でも好い、湯でも
茶でも好いのである。”
この文章はまったく漢文的教養の上に成り立った、
簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません。
私がなかんずく感心するのが、「水が来た」という
一句であります。
この「水が来た」という一句は、全く漢文と同じ手
法で「水来ル」というような表現と同じことである。
しかし、鴎外の文章のほんとうの味はこういうとこ
ろにあるので、これが一般の時代物作家であると、
閭が少女に命じて汲みたての水を鉢に入れてこいと
命ずる。その水がくるところで、決して「水が来た」
とは書かない。まして文学的素人には、こういう文
章は決して書けない。
このような現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけ
いなものをぜんぶ剥ぎ取り、しかもいかにも効果的
に見せないで、効果を強く出すという文章は、鴎外
独特のものであります。」