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批評家に小説がわかるか

<批評家と文体>
「大体私は批評という一ジャンルの存在理由を
疑っている。直感的鑑賞と自己批評(乃至は自
伝乃至は告白)との中間地帯の存在理由を疑っ
ている。文体をもたない批評は文体を批評する
資格がなく、文体をもった批評は(小林秀雄氏
のように)芸術作品となってしまう。」

<芸術家の理解力は欠陥のしるし>
「理解力は性格を分解させる。理解することは
多くの場合不毛な結果をしか生まず。愛は断じ
て理解できない。志賀直哉氏に太宰治氏がかな
わなかったのは、太宰氏が志賀文学を理解して
いたにもかかわらず、志賀氏が、太宰文学を理
解しなかったという一事にかかっており、理解
したほうが負けなのである。
芸術家の才能には、理解力を減殺する或る生理
作用がたえず働いている必要があるように思わ
れる。理解力の過多は、芸術家としての才能に
どこかしら欠陥があるのである。」

<三島にとっての最高の文体、森鴎外>
「私は鴎外の文体を明治以後の唯一の文体と考
えることに変りはないが、何でも鴎外をまねて
簡素雄勁を心がければ、大人の文学と見てもら
えると謂ったスノビズムに、少しばかりの阿呆
らしさを感じているものである。」

<鴎外>
「鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの
盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に
復活すべき人なのだ。
言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語
を創り上げてしまったその天才を称賛すべきなのだ。」

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