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東洋の理想

東洋の理想
岡倉天心1863-1913
tenshin okakura

「東洋の理想」(1)

1866年、欧米の芸術・歴史を研究するために
日本政府より海外に派遣された岡倉氏は
欧米の芸術に圧倒されるどころか、アジアの
芸術に対する氏の認識と評価をますます深め、
ますます強めたに過ぎなかった。
(以上、m.e.ノーブル(英国婦人)談要約)

日本に集まり、日本の芸術の中に自由な生き生
きとした表現を得ているものは、大陸アジアの
文化である。

おのれを顧みず他を救おうと念ずる仏の悲願ー
の壮大な解釈。こうしたものが日本の芸術の
真義であります。

「東洋の理想」(2)

<富の貯蔵庫>
「万世一系の天皇をいただくという比類なき
祝福、征服されたことのない民族の誇らかな
自恃(じじ)、膨張発展を犠牲として祖先伝来
の観念と本能とを守った島国的孤立などが、
日本を、アジアの思想と文化を託す真の貯蔵庫
たらしめた。」

「アジア文化の歴史的な富を、その秘蔵の標本
によって、一貫できるのは、ひとり日本において
のみである。」

「日本はアジア文明の博物館となっている。いや
博物館以上のものである。
なんとなれば、この民族のふしぎな天性は、この
民族をして、古いものを失うことなしに新しいも
のを歓迎する生ける不二元論の精神をもって、過
去の諸思想のすべての面に意を留めさせているか
らである。」

「東洋の理想」(3)

<精妙な仕上げをする希有な民族>
大和民族は、「戦いに臨んで精悍、平和の諸芸
において温雅、・・・詩歌を愛し、女性に対す
る大いなる尊敬の念をいだく」民族である。

日本の四季に育てられた日本芸術は、「中国芸術
の単調な幅広さ・・・インド芸術の過重な豊麗さ、
・・・と区別するものとなっている。
時に雄大さを害することはあるけれども、
わが国の工芸装飾美術に精妙な仕上げを与える
ところの清潔を愛する先天的な心は、おそらく
大陸の作品にはどこにも見出すことのできない
ものである。」
「東洋の理想」(4)

<アマの民族>
「模倣が自由な創造に取って代わるということは
かってなかったのである。受けた影響を、それが
いかに巨大なものであろうとも、これを受容して
改めて応用するための豊かな活力が常にあったの
である。
アジア大陸の日本に対する接触が、常に新しい生
命と霊感とを生むことに寄与したということは、
アジア大陸の光栄である。
なにか単なる政治的な意味だけにとどまらず、さ
らにもっともっと意味を深くして、一つの生ける
自由の精神として、生活、思想、および芸術にお
いて、絶対他の征服を許さざるものとしてみずか
らを保っていることは、アマ(アマテラス)の民
族のもっとも神聖な栄誉である。」
「東洋の理想」(5)

<原始日本芸術への最初の波>
原始日本の芸術全般の上に及んだ大陸の影響の
最初の波は、中国の漢および六朝のそれであった。
漢の芸術そのものは、おおまかに儒教的(孔子的)
と呼んでよいであろう。

「天翔(か)けてそれ自身の無辺際(むへんさい)
の空と混融することは、インドの精神にまかせ、
地と物質のもろもろの秘密を探ることは、経験主義
のヨーロッパにまかせ、地上の夢の楽園を通って
中空に浮かぶことは、キリスト教徒とセム族に
まかせ—全てこれらを他にまかせつつ、儒教は、
その広大な知的綜合と、一般民衆に対するその
無限の同情との魅力によって、常に偉大な人の
心をとらえつづけるにちがいない。」

「東洋の理想」(6)

<孔子と音楽>
「孔子の生涯をかえりみて、音楽の美しさを
いとおしげに語っているいくつかの対話のみな
らず、音楽を聞けないくらいならむしろ断食を
した方がいいといった話・・・」

孔子の時代、芸術の最上位に置かれたのは
音楽であった。
現在、故宮博物院では、書が最高位とされて
いる。

故宮博物院:
1933年2月から5月までの間、13,427箱と64包の
文物は五つに分けられ、上海、そして南京に運
ばれた。
1948年末から南京国民党政府は南京の倉庫から
2,972箱の文物を選んで台湾に運んだ。
台湾に運ばれたものは、器物4 万6100 件・書
画5526 件・図書文献54 万5797冊。
「東洋の理想」(7)

<儒教的芸術の傾向と次元>
「儒教の理想は、二元論から生まれたその均斉と、
本能的に部分を全体に隷属せしめることの結果たる
その静寂さをもつもので、必然的に、芸術の自由を
制限するものであった。倫理への奉仕に縛られて、
芸術は、自然、工芸的なものとなった。」
もしも、道教的精神というものがなかったならば、
それらは、常に装飾的なものの方向に傾いたに
ちがいない。
「しかし、たとえそれが装飾的なるものにとどまって
いたにしても、それはけっしてブルジョア的低俗の
次元にまで堕ちることはしなかったであろう。
なんとなれば、アジアの芸術は、それが持つ普遍
没個我なるものの宏大な生命によって、そうした
共感の欠如というようなもっとも縁遠い危険からは、
永遠に救われているからである。」
「東洋の理想」(8)

<儒教と老荘思想が用意したもの>
「儒教的中国がインドの理想主義を受け容れる
ことは、もし老荘思想と道教とが、周朝の末以来、
これらアジア思想の相互に対立する両極の共同の
展開のための心理的基礎を準備してきていなかった
ならば、けっして行われることのできなかったこと
であろう。」
「東洋の理想」(9)

<すき間に入る、ということ>
「養生の術の秘訣は、抗争非難することに
あるのではなくて、いたるところに存在する
すき間に入り込むことにある」(荘子)
(例文:「包丁」)
「かくして彼(荘子)は儒教の制度習俗を
嘲(あざわら)っているのであり、それらは
単に有限の努力にすぎず、没個の気の広大な
領域を到底おおうことはできないというので
ある。」
「東洋の理想」(10)

<宝石に飾られた牛になりたい若者たち>
「荘子は官職に就くように求められたが、その
とき、飾り立てられた犠牲の牡牛を指さして、
「この牛は宝石で飾り立てられてはいるけれど
も、斧(おの)が彼の上に置かれているとき、
幸福を感ずると思いますか」といったと伝えら
れている。」
老荘の思想は、儒教的社会主義の根底を揺さぶった。
孟子の生涯はそれとの戦いに捧げられたのである。
「東洋の理想」(11)

<陶淵明>
「老荘派中もっとも儒教的、儒家中もっとも老荘的
な人で、皇帝の使いを迎えるために礼服を着るのは
いやだといって地方長官の職を辞した人であった。」

補記:
李白、杜甫、数ある中国詩人の中で最も、日本
人の心を捕らえているのは陶淵明ではないのか?
と私は思っている。

「「露にうなだれた」秋菊の清らかさ、風にそよぐ
竹の微妙な優美さ、薄明の水にただよう梅花のそこ
はかとなき香り、無言の嘆きを風にささやく松の緑の
清澄、気高き魂を幽谷にかくし、あるいは天の一瞥に
春を求める水仙の神々しさ、こうしたものが詩的霊感
の主題となるのは、陶淵明をはじめその他の南部の詩人
たちを通してである。」

「東洋の理想」(12)

<顧之(こがいし)>
「顧之は、四世紀後半の詩人画家であるが、老荘
派に属し、「詩において第一、絵において第一、愚
において第一」(才絶、画絶、癡(痴)絶)と呼ば
れて、三つの徳(三絶)によって賞讃された人であ
った。
彼は、芸術的制作において、主調への集中の必要を
説いた最初の人でもあった。
「肖像画の秘訣は、当の人物の眼に啓示されている
”あれ”にある」と彼はいった。
けだし、最初の組織立った絵画批評と最初の画人伝
とが中国でこの時代にはじまったことは、老荘精神
の生んだもう一つの成果である。」

補記:
美術批評を志すならば、まず老荘を学べ。

<肖像画「カッサンドラ」>
名手プロトゲネスは女予言者(カッサンドラ)の眼
にトロイの陥落の全貌をあらわし得たという。

「東洋の理想」(13)

<謝赫(しゃかく)–絵画法–>
「五世紀の謝赫は、画法の六法を定めているが、
その中で、自然を写し描くという観念(応物象形)は、
他の二つの主要な原則の補助たるべきものとして、
第三位に落ちている。
その第一は「事物の律動を通じての精神の生命的躍動
(気韻生動)である。
・・・
第二の法は、構図と線描とに関するもので、「骨と筆
づかいの法則」(骨法用筆)と呼ばれている。
これに従えば、創造的精神は、降って絵画的意想の中
に入るとき、有機的な構造をとらなければならないの
である。」
「東洋の理想」(14)

老荘といえば、道教である。
道教といえば、仙人である。

<熊野地方のお話>
「秦の皇帝たちは、東海に不老不死の薬を求める
探検隊を派遣し、隊員たちは、素手で帰るのを恐れ、
日本に定住したと信じられており、その地では、
今日にいたるまで、一族全体がかれらの後裔であると
称している(和歌山県熊野地方への言及)」

「漢の皇帝たちもまた、同様の追求に耽らなくは
なかった。そして、幾度となく、かれらの神々を
祀る神殿を建てたが、そのたびにかならず儒者の
抗議にあって取り壊された。」
「東洋の理想」(15)

<道教、老荘、仏教>
「一つの宗派としての道教の最終的な組織化は、
六朝初期の陸修静(りくじゅせい)と寇謙之(こ
うけんし)の努力によるものであった。
かれらは、民間に流布している俗信の意義とそれ
に対する承認とを増大させる考えをもって、老子
の哲学と仏教徒の儀式とを採り入れた。
・・・
哲学的な面においては、仏教は老荘の徒によって
双手をあげて歓迎された。かれらは、その中に、
かれら自身の哲学の前進したものを見出したので
あった。
・・・
初期の道教徒たちは、仏陀の像を、かれら自身の
神々の一人の像として歓迎した。」
「東洋の理想」(16)

<仏教は一つの成長物である>

「多様の中に統一を求める、すなわち、普遍なる
ものと特殊なるものとの中に同時に真に個的なる
ものを主張すると宣言することにおいて、われわ
れはすでにこの信仰のあらゆる分化を想定してい
たのである。」

インドに二十三派
中国に十二派
日本に十三派

補記:
仏陀(釈迦)
生没年諸説

bc565-bc486
bc560-bc480
bc465-bc386
bc463-bc383

ネパール南部,カピラヴァストゥ城で、王子として
生まれる。
釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し
左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話したと
伝えられている。

16歳で結婚、1子をもうける。
29歳で出家、6年間瞑想にふける。
35歳、12月8日の未明悟りを開き、「ブッダ」と
なった。

人生の苦悩から逃れるための方法
因果の理法を理解し、
物質や自我への執着が生む苦悩から解脱せよ!

80歳、クシナガラの沙羅の木の下で没す。
「東洋の理想」(17)

<中国思想の三つの流れと詩的代表>

儒教:杜甫
道教:李白
仏教:王維

<平安時代>
平安時代において「われわれは密教と呼ばれる
仏教発展の一つの新しい波を見出す。その哲学的
基礎は、それに禁欲的苦行と肉体的歓楽の崇拝と
いう、二つの極端を包含することを得しめるが
ごときものである。」

<真言宗>
「かれらが心と肉体との間の境界に横たわるものと
考えたところの「言葉」、すなわち聖なる呪文を唱
えることを、その結果を収めるもっとも重要な道と
したのであり、かかるところから、この派は時に
「真の言葉」、すなわち真言宗と呼ばれた。」
「東洋の理想」(18)

<密教>
「あらゆるものの中に、没個的普遍者たる毘廬遮那
(びるしゃな)が含まれており、それの至上の実現
こそが信者のたずね求むべきものとされたのである。
罪業も、この超絶的一体性の見地よりすれば、自己
犠牲と同じく神聖なものとなり、最下の悪魔も最高の
神と同じように自然に、万神殿の中心となるのである。」

<密教的建築>
「寺院を一つ建てるにしても、阿闍梨(あじゃり)、
すなわち師たる者が、宇宙的意匠をもって地取りを
するのであった。そしてその中では、あらゆる石は
それぞれその所を得、そしてその輪郭内に見出される
塵芥一つといえども、彼自身の修行の不完全や欠点を
あらわすものとされたのである。」

<万神殿>
1 不動:力、すなわち知識
2 宝生:富、すなわち創造的な力
3 阿弥陀:慈悲、すなわち人間に天降る神の知恵
4 釈迦:いとなみ、あるいは業(カルマ)いいか
えれば地上の現実の生活におけるはじめの三つのもの
の実現、すなわち釈迦牟尼、をあらわす。
「東洋の理想」(19)

<生命というもの(密教)>
「生命というものは、いわれるところによれば、
けっして自己を完成するものではなく、いっそう
高次の実現の段階にむかって向上しようとするその
努力において、永久に完成を突き破って進むもので
ある・・」

「東洋の理想」(20)

<平安時代の彫刻>
「この時代の彫刻のもっともすぐれた標本の一つは、
空海の命によって刻まれ、今日京都の近くの神護寺に
現存している大治療者薬師如来の像である。
もう一つは、近江の渡岸寺の十一面観音で、これは
空海の偉大な敵手であった最澄の作とされている。」

「平安時代の芸術は、かくて、具体的なるがゆえに
力強くかつ活力に満ちた作品の同義語になっている。
それはある確信の気迫に満ちている。
しかし、それは、偉大な理想主義の自発性と超脱とを
欠いていて、自由ではない。」
「東洋の理想」(21)

<藤原時代(900-1200)>
インドの理想の把握を完了。
「日本人は、いっそうインド人に類似すること
によって、中国人よりは有利な立場に立っている。
すなわち中国人は、儒教に表現されているあの強い
常識によって、いかなるものにせよある単一の動機
を、そのあらんかぎりの熾烈さにまで均衡を失して
発展せしめることをしないように抑止されているか
らである。」

「当時の過度の洗練にとっては、有用な務めのごと
きは、身を賤しめる、かつ不純なもののように思わ
れ、したがって、金銭を取り扱ったり武器を使用し
たりすることは、下賤の階級にのみふさわしい職務
と思われた・」

「軍隊の司令長官が馬にまたがることさえできず、
近衛の大将が、当時の流行となった重い甲冑を身に
つけてみると、身動きができなかった・」

下級として軽蔑されていた天皇末裔の源平両氏が、
藤原氏に取って代わる。
「東洋の理想」(22)

<鎌倉時代(1200-1400)>
「この時代は、封建的諸権利の観念と個人意識との、
十分な形における発展をその特徴としている。」

「そしてその主要な特徴は、現代の明治維新にいた
るまで続くことになる。」

「「もののあわれを知ること」というのがこの時代
の標語となり、かくて、他人のために苦しむことに
自分の存在理由があるとする、さむらいの偉大な理
想を生み出した。」

「武士階級は、その理想として、救いは自制と意志
の力の中に求むべきであるという禅宗の教えを採用
した。」
「東洋の理想」(23)

<足利時代(1400-1600)>(1)
この時代は「近代芸術の真の音調、すなわち文学的
意味における浪漫主義、を打ち鳴らしている。」

「自然に対する生得の愛は、足利時代の芸術に制限を
加えるものとなっている。当時の芸術はあまりにも
専一に山水や花鳥にのみ身を入れすぎている。」

「剣を用いることではなくて、剣であること(純潔
で、不動で、常に北極星を指す剣であること)が、
足利武士の理想であった。」

「禅は、形式や儀式を無視するという意味において、
偶像破壊的ですらあった。悟りを開いた禅僧によっ
て、仏像は火中に投ぜられたのである。」

「われわれの礼法は、扇の差し出し方を習うことに
はじまり、自殺をとげる儀式で終わるのである。」

「東洋の理想」(24)

<足利時代(1400-1600)>(2)
「足利時代の貴族は、・・・・
好んで茅葺きの家に住み、それは一見もっとも
卑賤な百姓の家と同じく簡素であったが、しかも
その結構は、相如(しょうじょ)あるいは相阿弥
の最高の天才の設計によるものであり、その柱は、
インドのもっとも遠い島から持ちきたった世にも
高価な香木でできていた。
その茶釜ですら、雪舟の意匠になる工芸のすばら
しい逸品であった。」

「あらわに展示するのではなく、ほのかに暗示す
ること、それが無限ということの秘訣である。
完全ということは、すべての円熟と同じく、成長
が限られているがゆえに、感銘がないのである。」
「東洋の理想」(25)

<足利時代(1400-1600)>(3)

<余白>
「ある観念の完成を想像力みずからに行わせる
余地を残すということは、あらゆる形態の芸術
的表現にとって肝要不可欠なことであった。」

「偉大な傑作の、何もかいていない絹地の余白は、
しばしば、描かれた部分そのものよりもいっそう
意味にみちていることがある。」

「東洋の理想」(26)

<足利時代(1400-1600)>(4)
<何故、世界は禅を理解出来ないのか>

中国、宗朝の芸術家(牧谿(もっけい)など)
は禅精神のある理解をすでに示してした。
「しかし、禅思想を、そのすべての強さと純粋
さとにおいて吸収するためには、儒教的形式主
義から解放された日本精神のインド的傾向を代
表する足利期の芸術家たちを必要としたのであ
る。・・・・
(彼らの)芸術形式の自然の傾向は、純粋で、
厳粛であり、簡素にみちていた。」
「東洋の理想」(27)

<足利時代(1400-1600)>(5)

<雪舟>
「雪舟あるいは雪村の偉大な作品は、自然の描写
ではなくて、自然についての試論である。
彼らのとっては、高いものも低いものもなく、
高貴なものも洗練されたものもない。女神観音の
絵も、あるいは釈迦の絵も、一輪の花、一枝の竹
の絵と、画題としての重要さにおいてなんら選ぶ
ところはない。
一筆一筆がその生死の契機を持つのである。
すべてが一緒になって、生命の中の生命であると
ころの、ひとつの観念を解釈することに力を貸す
のである。」

「雪舟がその地位を得ているのは、禅の精神の大
きな特徴である直裁さと克己とによる。
彼の絵に相対するとき、われわれは、他のいかな
る画家もけっして与えることのない安定した落ち
着きを学び知るのである。」
「東洋の理想」(28)

<足利時代(1400-1600)>(6)

<音楽・能>
「わが国民音楽が成熟した形であらわれてくるのは、
この足利時代の間においてである。」

能において「詩は歴史的主題を扱い、常にそれらを
仏教の思想によって解釈している。
すぐれているかいないかの標準は、無限の暗示性で
あって、自然主義は非難さるべき随一のものである。」

能において「永遠の声なき旋律からこだまするあの
ような曖昧模糊(あいまいもこ)たる発声は、知ら
ない人には奇異あるいは野蛮的に思われるかもしれ
ない。
しかしそれが一つの偉大な芸術のしるしをなしてい
るものであることには、ほとんど疑いがあり得ない。
それは、能が心から心への直接の訴えであることを、
語られざる思想が、役者の背後から、聴く者の内部
に住む聞かず聞えざる悟性に運ばれる様式であるこ
とを、一瞬といえども、けっしてわれわれに忘れる
ことを許さないのである。」
「東洋の理想」(29)

<豊臣および初期徳川時代(1600-1700)>(1)

<無教養者たちの芸術>
この時代の中心人物は、もっとも卑賤な身分から
身を起こした秀吉である。
この時代の新貴族たちには、山賊、海賊などが多
かった。
「そして自然、かれらの無教養な心にとっては、
足利貴族たちの荘厳厳格な洗練は、これを理解でき
ないがゆえに、趣味に合わぬものであった。」

「この時代の芸術は、その内面的な意味によって
よりは、その華麗さと色彩の豊富さとによって、
いっそう注目すべきものである。」
「東洋の理想」(30)

<豊臣および初期徳川時代(1600-1700)>(2)

<金箔の多用>
「桃山の宮殿兼城郭の有名な「百双」の屏風のう
ちの何枚かが、秀吉の行列の間路傍を幾マイルに
もわたって飾った屏風の何枚かとともに、今日も
なお保存されている。」

<風雅よりは富を誇示する大名>
「短気な大名たちは、疲れ切った芸術家たちに、
かれらの命令を一斉に雨と降らせ、あるときには、
御殿を、装飾も施して、一日で完成せよと要求した
こともあった。
そして、狩野永徳は、多数の弟子を率いて、広大
な森林や、華麗な羽を持った鳥や、勇気と王者の
境涯を象徴する獅子と虎を描くなどしながら、か
れらの庇護者たちの豪勢な大騒ぎの真っ只中にあ
って仕事を続けたのである。」

「東洋の理想」(31)

<豊臣および初期徳川時代(1600-1700)>(3)

<家康そして宗達>
「徳川家康は、・・・芸術においても習俗におい
ても、彼(家康)は足利時代の理想に帰ろうとつ
とめた。」が「当時の習俗と愛好とは、簡素では
なく誇示に向かい、そしてこれは、徳川幕府創設
から一世紀後の元禄時代にいたってもなおそうで
あった。」

「歓楽と愉悦のこの時代は、精神的ではないが、
偉大な装飾的芸術を創造することになった。
深い意味を蔵して際だっている唯一の流派は、
宗達と光琳のそれである。・・・
宗達は中でももっともよく足利時代の精神をその
純粋な形で示しており、他方、光琳の方は、他な
らぬ彼の円熟のために、形式主義と気取りに堕し
た。」

「われわれは、光琳の伝記の中に、彼が絵を描く
ときにはいつも錦の座布団に座り、「創作してい
る間は大名気分にならなければいけない」といっ
たという、あわれを誘う話を見出す。」
「東洋の理想」(32)

<後期徳川時代(1700-1850)>

<無能な御用絵師生産時代>
「徳川氏は、統一強化と規律保持に熱心なあまり、
芸術と生活から発する生命の閃光を圧殺してしま
った。」

<ゴッホには気の毒だが、浮世絵は真の日本芸術
ではない>
「浮世絵は、色彩と描画においては熟練の域に達
したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いてい
る。・・・・
印籠、根付、刀の鍔、およびこの時代のたのしい
漆器類も、おもちゃであって、そういうものとし
て、そこにのみおよそ真の芸術が存在するところ
の、国民的熱誠の具現ではけっしてなかった。
偉大な芸術とは、その前でわれわれが死にたいと
願うところのものである。
しかるに徳川時代後期の芸術は、人にただ空想の
喜びの中に住むことを許すだけのものであった。
西洋において、日本の芸術がまだまじめに考察さ
れていないのは、大名の蒐集や社寺の宝物の中に
かくされている傑作の壮麗さではく、この時代の
作品の小綺麗さがはじめに注目を惹いたからであ
る。」
「東洋の理想」(33)

<明治時代(1850-現在)>(1)
「今日、日本人の心を束縛している二つの強大な
力の鎖があり、双方竜のごとくとぐろを巻いて、
それぞれが生命の宝珠の独占者になろうとして争
い、ときどき、両者とも、狂瀾沸騰する大海の中
に姿を没するのである。
その一つは特殊具体的なるものを通じて流れる普
遍的なるものの雄大な幻影にみち溢れたアジアの
理想であり、もう一つは、組織立った文化を持ち、
分化した知識のことごとくを揃えて武装し、競争
力の切っ先も鋭いヨーロッパの科学である。」
「東洋の理想」(34)

<明治時代(1850-現在)>(2)
幾世紀にもわたる冬眠からわれわれを目ざます
ことにあずかって力のあった3つの原因

1 <自らを知る(自国研究)>
「大日本史」、「日本外史(頼山陽)」
「建国以来連綿たる宗主権の影にはぐくまれた
この民族の不思議な粘着性、中国やインドの理
想を、それらを創り出した人々の手からはとう
の昔に投げ捨てられてしまっているような場合
にすら、それをそのまったき純粋さにおいてわ
れわれの間に保存している
粘着性、藤原文化の精妙を喜ぶと同時に鎌倉の
尚武の熱情に酔い、足利時代のきびしい純潔を
愛しながらも、同時に豊臣の華麗な壮観をも寛
容する粘着性、こういう粘着性が、今日、日本
を、西洋思想のこの突然の端倪すべからざる流
入にもかかわらず、無傷に保全しているのであ
る。」

2 <西洋からの侵略という不吉な危険>
オランダ語の辞書を解読することにひとりこつ
こつとその身を献げた、西洋科学の先覚者たち
の歴史を読むと、胸の張り裂ける思いがする。

3 <南方の大名達(薩摩、長州、肥前、土佐)>
革命の新しい精神が自由に呼吸することが出来
たのは、かれらの領地内においてであった。
今日まで日本を支配している偉大な精神は、そ
の血統をたどれば、かならずやかれらの境界内
の土地にいきつかなければならないのである。

<個性とは>
「個性とは、人生の、人間の、自然の、雄大な
ドラマの中で、悲劇であれ喜劇であれ、その中
で一個の独創的な役割を演ずることを常に喜ぶ
ものである・」
「東洋の理想」(35)完

<展望>
<俳句は生きた知識と温厚な人間を育てる>
「日本の鄙(ひな)の旅人もまた、その漂泊の
途上、名所を去るときにはかならず彼の発句、
すなわち、どんな無学な者にも可能な芸術形式
である短詩、を残していくのである。
このような様式の経験を通じて、円熟しかつ生
きた知識、堅固にしてしかも温厚な成人の調和
した思想感情としての東洋的な個性の概念が育
てられるのである。」

<汝自身を知れ>
「いかなる木も、種子の中にある以上に偉大に
なることはできない。生命はつねに自己への回
帰の中に存する。」

資料:
「東洋の理想」1903刊行
「茶の本」1906刊行

1877東京大学文学部に15才で入学、政治学・理財学
(経済学)を学ぶ。
25才のフェノロサ(1853-1908,政治学講師)と出会う。
(在学中からフェノロサの通訳をおこなう)
29才東京美術学校(現、東京芸大)の校長に就任

天心の事件(卒業論文):
「英文の論稿「国家論」を提出間際に若妻15才(天心19才)
に原稿を焼かれた。そこで、2週間で「美術論」を書いて
提出した。」

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