「親鸞復興」吉本隆明
<修行概念の解体>「親鸞まできて日本浄土教の思想は、完全に
仏教の修行という概念を解体してしまった。
もちろんヨーガ的な心身集中法をもとにした
仏教の僧侶の修行の概念も解体してしまった。
そのうえ戒律の概念も出家の概念も解体した。」
<念仏の数>
「念仏は1回でいいのかとか、たくさん称え
なければいけないのかということが、お弟子
さんたちのあいだで問題になりました。
親鸞はそれにたいして、いや一遍でいいとか
たくさん称えなければいけないとかという考
え方は一切いけないんだ、念仏は時を選んだ
り場所を選んだりしないで、弥陀の他力の中
に包まれるというかたちでおのずから出てく
るということで、何遍称えればいいとか、十
遍称えればいいと言っているわけではない、
とにかく「乃至十念」ということは、時と場
所とを選ばないということなんだという理解
のしかたを親鸞はお弟子さんたちに告げてい
ます。」
<寄付しなくてもよい>
「かりに、アフリカの困っている人たちを
助けるために一人十万円だしてくれってい
う人がいたとします。
これはいいことなんだから絶対出してくれって
言われたら、ちょっときついね、それどうし
ようかと思い悩むことがありうるわけです。
それにたいして親鸞は、きっぱりと、たとえ
れば、わたしはそれなら念仏でも称えますって
いうふうに断ればそれでいいんですよ、悩む
ことはないんですよって言っていると思いま
す。」
<阿弥陀仏>
「つまり親鸞になりますと、ほとんど、実体と
しての浄土というのは信じられていないし、ま
た阿弥陀仏についても人間の形、いわゆる仏像の
形をしていて、人間のように目鼻があってという
ようなことはもちろん信じていません。それを
否定しています。
ようするに無上仏というのは形のないものだ、
ただ人々を無上仏にまでもっていきたいために、
その手段として阿弥陀仏というのはあるんだ、
そうじぶんは理解していると、親鸞は、かれこれ
八十六、七歳のときに、弟子に語っています。」
<一遍>
「法然からいえば弟子の弟子、孫弟子に当たり
ますが、一遍上人という人がいます。・・・
一遍にとって<浄土>とは、死んだあとでゆける
ところだという意味でいえば法然と同じです。
・・・
それでは<浄土>とはどういうところか、どう
いうふうに願ったらゆけるのかということが
問題になってくるわけです。
そこに至って、・・・・
一遍という人は一切の物を全部放棄してしまえ、
放棄してしまって名号を願えば、つまり執着を
どこにももたないようにして名号を願えば、願
ったその場所、その時刻、その瞬間がすでに
浄土なんだ、という言い方をしています。
・・・
一遍がいちばん傾倒したのは空也上人です。
・・・
一遍は空也上人の書いたものをいつも懐にもって
いたというエピソードがあります。」
「じぶんは人々とおなじようには住む処ももた
ないし、心に執着心ももたないし、それから特
別のお寺、修行場で修行するのではない、街中
を歩けば、その歩いてる街中、ゆくところ全部
が道場、修行場になってしまう、それがじぶん
の考え方だと空也上人は言っているわけです。
それが一遍がとても傾倒した言葉です。」
<すごいぞ!法然>
「<死>ということを基準にすれば、<死>に
たいして価値ある<生>は、愚純とか無知とか
にあるんで、知識とか高度なよい修行をすること
にあるんじゃないということです。
・・・
愚かさや無知の持つ一途さに人間的価値の大きさ
があるので、知識があるとか、善い行いをしてい
るとかということは、そんなにたいした問題じゃ
ないんだということを法然ははじめて言った人で
す。
・・・
人間の心の究極点を基準にすれば、知識がある
ということよりも、知識がないということのほ
うが価値があるんだよ。
また善行をつんだとか、あるいは社会的地位が
あるとかいうことよりも、ないほうが価値がある
生き方なんだよということを、法然ははじめて
言ったのです。
それはとても重要な意味をもつとおもいます。」
<法然のよさ>
「法然のよさは、・・・人間の価値観を、知識
とか善い行いとか、あるいは社会的地位が上だ
とか、お金持ちだとかそういうことに絶対おか
なかったことです。
そうじゃないんだ、逆なんだよ、という考え方
を確立したことです。
もうひとつは、源信の臨終正念、臨終の時の
念仏、あるいは臨終の時の<死>の儀式に対し
て疑いを最初にさしはさんだのが法然だという
ことになります。」
<一遍の偉大さ>
「一遍は病気ですが、偉大な僧侶だなとおもわせ
るところもあります。なぜかというと、こんな
ことを言っているのです。
ほんとにいい念仏往生とは何かというと、それは
妻子をもって、それから家ももって、財産ももって、
それでもって念仏を称え往生するというのが、
いちばんいいんだと言います。上根だということ
です。
二番目にいいのは、妻子はもたないけれども、
財産はほどほどにもち、住む処ももち、というの
が中くらいにいいんだ。
それでいちばん悪いのは、じぶんのように無一物
になって執着をすてないと、念仏往生ができない
ようなものだ、一遍はそう言います。
じぶんはじぶんが駄目な人間だと知っているので、
何かもつと往生できないと思うから、もたない
ようにしているという逆説を一遍は語っています。
現在にも通用する一遍の偉大さは、そういうところ
にあるとおもいます。」
<<死>の最も偉大な専門家、親鸞>
「ぼくなんかがいちばん偉大だとおもっている
のは、親鸞という人です。どうしてかというと、
病気でないからです。病気じゃないということと、
それからごくふつうの人の<死>ということが、
じぶんの考え方のなかにちゃんとひとりでに
含まれているということがとても重要だと思い
ます。
親鸞の思想が存在しなかったら<死>の専門家
とぼくらとをつなげる橋をかけることができない
とおもいます。
ぼくは親鸞がいちばん偉大な<死>の専門家だな
とおもっています。」
<正定聚>
「親鸞は、第一に、臨終念仏という考え方を
まったく否定しています。それからもうひとつ、
死ぬときになって一生懸命信仰して念仏を称え
ると、阿弥陀さまがやってきて、それでじぶん
を浄土へつれていってくれるという、そういう
源信以来の考え方をまったく否定しています。
どういう言い方をするかというと、ようするに
臨終を待つことはない。それから来迎を頼むこ
ともない。じぶんの信心が定まったときに往生
が定まるんだ、ということです。
それでは信心が定まった、そうしたらどうなる
んだ?ということがありましょう。
それにたいして親鸞はすぐに躊躇なく、
「正定聚の位に就けるんだ」と言います。
「正定聚」の位というのは何なんだ?
それは、死ねばすぐそのまま浄土へ直通できる、
そういう場所だと言っています。
それは生きながら信心が定まったときに、もう
そこにいっている。だから、生きながらそこに
ゆけるし、同時にその場所は、浄土に直通して
いる場所なんだということになります。」
<鈴木大拙>
「鈴木大拙という人は、・・・
一言でいってしまえば霊性という概念を、
固有に独自につくりあげた思想家だ、・・」
「大拙の霊性になかには、無分別智だけ
じゃなくて、分別智も、ちゃんと総合して
含まれているようにおもわれます。・・・
大拙自身はじぶんではよくわかってつくり
あげている概念のようにおもいます。
ただ、この大拙の霊性ということをわかる
ためには、どうしても宗教、とくに仏教に
たいする信仰がいるような気がするのです。」
「(大拙は第十八願にたいして)
一生懸命信仰して、言葉でいえば「至心に
信楽して」という状態は、大拙のいう、物
と心とが二元的に分かれていない状態に、
つまり悟りの状態にちかい状態に入ること
だと言うのです。大拙はそういう解釈のし
かたを十八願にたいしてやっています。
・・・
この理解のしかたは、一口にいいますと、
浄土教のかなめである十八願を、禅宗的に
理解したしかただとぼくにはおもわれます。
ぼくはそういうふうに十八願を理解して
いません。」
参考:<悟り>
「悟りとは、問いと自分が一体化することに
よって、問う者が問題を解こうと努めなくと
も解決がその一体性から、おのずから生まれ
てくる状態である。」(大拙)
「”悟りは人がその全心全体を消耗しつくし
たと思う時に、不意に来るものである”
悟りとは、決してクソ坊主が恐れ崇めるよう
なものではない。ただ、「全心全体を消耗」
した証なのである。」(大拙)
注:第十八願:真心をこめて弥陀の誓願を
信じて、念仏を十遍でもいいから称えたら、
かならず浄土に往生することができる。
「大拙は、考えが「大地」を離れない、ある
いは心が地面を離れないということを、浄土
教における<慈悲>を根本においているとお
もいます。この「大地」はどこからくるのか
ということは、ぼくにはまったくわかりません。
・・・
でも、何を言おうとしたのかはとてもよくわ
かる気がします。
この「大地」を離れた思考というのは、だい
たい抽象化されて、抽象化を推しすすめれば
物と心、物と精神とが全部二分化される。
だから、どうしても「大地」を離れてはいけ
ないんだという。
もし大いなる<慈悲>というものを離れまいと
すれば「大地」を離れてはだめだということ
でしょう。
・・・
日本浄土教の、法然、親鸞の思想から「大地」
という考え方を特徴として採り出したのは、
ぼくの知っているかぎりでは大拙以外にはあり
ません。これは珍しい考え方だといえるとおも
います。」
「ぼくが言っても、悟りがないから説明に
しかなりません。せめて信仰があるといい
のですが、それもないから、けっきょくは
解説というか、解釈になってしまいます。
・・・
大拙自身は心を持ったひとりの思想家です。
心はどこにあるのか、とつきつめてゆきま
すと、禅における「不生禅」、浄土教、浄土
真宗における法然、親鸞に至る教えに眼目を
つけて、そこにじぶんの考え方、じぶんの
感覚、じぶんの霊性とかんがえているものを
投影している優れた思想家であるということ
ができます。」
<蓮如ー親鸞思想の通俗化>
「話の内容は、親鸞のめがねを通して見た
蓮如ということになるとおもいます。
ですから蓮如を否定的にとらえる話になって
しまうのではないかとおもいます。
・・・
日本の浄土宗の眼目である十八願にたいして
蓮如はとてもいい理解を示していますが、
「在家止住のやから」という限定をつけて
います。こういう限定は親鸞にはないのです。
・・・
つまり教団から(蓮如は)ものを言っている
ことを意味しているわけです。
・・・
そういうところに蓮如の洞察力のおよばなさ
があらわれています。」
「蓮如は(輪廻転生を)実体化しています。
しかし、親鸞は一度もそういう言い方はして
いません。」
<新新宗教>
幸福の科学:大川隆法「太陽の法」
統一教会:「原理講論」
オウム真理教:麻原彰晃「生死を超える」
「読むたびに感じる印象は、一種奇妙な、
ある意味で病的、ある意味で読む人間の心
を打つ衝撃的な世界だということです。
・・・
特徴はふたつあります。ひとつは、どの
主張を読んでも、一種の早道を通っている
感じがします。それは直線コースを通って
いるという意味ではなく、ある地点からある
地点へ到達するのに、大なり小なり短絡路を
通っているということです。
宗教と思想の大道をまっすぐにすすんで
到達したという印象よりも、とにかく到達
することが目的で、遮二無二でも到達しよう
としています。
ですから、どこかで短絡しているという印象
です。
もうひとつは、いいことを言わなければ宗教
になりませんから、やはりいいことを言って
いるということです。その「いいこと」の
内容に立ち入ってみると、とにかくいいこと
を言っている。
そのふたつがとても強烈な印象です。」