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「時間はどこで生まれるのか」橋本淳一郎

<現在の「時間」常識>
「われわれは「今」という瞬間を生きているが、
この「今」という瞬間は、自分の心の中にある
と同時に、この宇宙全体が「今」という瞬間に
あるのだと何となく信じている。
しかし、これは明らかに間違いである。
・・・
この宇宙全体に「今」という物理的時間など
存在しない(ニュートンの絶対時間はそう主張
するのだが、相対論はそれを明快に否定する。)」
<温度は時間と似ている>
「(原子の)乱雑な動きが非常に激しいとき、
われわれの皮膚細胞は激しく揺さぶられ、それ
を脳は熱いと理解するのである。
よって、一個の原子の温度などというものを
考えることはできない。
・・・
温度とはマクロな世界にだけ存在する概念で、
ミクロな世界にはないのである。」
<空間は虚である>
「時間が実数で空間が虚数という考え方は、
物理学では自明のことである。
(ちなみに、このような時空は、ミンコフスキー
空間と呼ばれている。)」

物理学者は、空間が虚数であるということに
何の抵抗も感じていない。
あたかも、銀行員が一億円という現金を前にして
無感動であるのと同じである。

<今という瞬間は誰とも共有できない(1)>
今現在の私は、(現在の他者によってではなく)
過去の他者によって規制されている。
今現在の私は、(現在の他者ではなく)未来の
他者しか規制できない。

補記:——————
<相対論の時空図>
紙に縦(時間)、横(空間)の線を引く。
さらに、x=0,Y=0で交差するx(バッテン)を引く。

紙面が四分割された。

上の部分が「絶対未来」
下の部分が「絶対過去」
左右の部分が「非因果的領域」(あの世)

<空間が虚という意味>
時空図の左右(空間)は、「非因果的領域」
なので、私と関わりをもつ実ではないのである。
(因果関係をもつためには、光速を超える情報
伝達手段が必要である)
<今という瞬間は誰とも共有できない(2)>
「ある人にとっての過去が、別の人にとって
は未来であるなどということは、ありえないと
思う人は、いまだ絶対時間という亡霊に取り
憑かれているのである。」

「相対論では、見る人の立場によって、同じ
事象(事件)が過去にも現在にも未来にも
なりうるが、それでも原因と結果の因果律が
破られることはない。」

ところが、量子論はより深刻な問題をもたら
した。
<ミクロの世界では「位置」や「速度」も消滅する>
「粒子の位置と速度は、粒子を観測していないとき
には、実在しない」

注:観測という用語の意味は、必ずしも人間が
その物理量を測定しているという意味ではない。
ある粒子を「観測」するとは、その粒子が、原子
の大集団であるマクロな物質と相互作用をすること。
<不確定性原理>
位置と運動量をかけ算した物理量の次元を「作用」
といい、不確定性原理は、対象としている二つの
物理量同士のかけ算が「作用」の次元になる
物理量の間だけで成立する。
<量子論の衝撃>
「ニュートン力学の登場によって、位置、速度、
質量、エネルギー、時間といった物理量が、より
基本的で実在的な特別の物理量であることが
明らかとなっていき、そして、量子論では、
さらにそれらの物理量の非実在性が暴露される
ことになったのである。」

<一個の電子はイメージできない>
「一個の電子というものを考える。この電子が、
この宇宙に存在することは事実である。
しかし、このときわれわれは、電子を一個の
ボールのような存在と考えてはいけない。
そのようなものとして見えることもあるが、
それは電子の本質ではないのである。
ではどのようなものと考えればよいのか。
それを感覚的にイメージすることは、不可能で
ある。
一個の電子をなるべくその実体に即して捉える
ためには、抽象的な数学表現に頼るしかない。
たとえば、「無限次元複素ヒルベルト空間の
ベクトルである」といった具合である。」
<ミクロの世界では、位置や速度も消滅する>
「電子銃から発射されてブラウン管に向かって
真空中を飛んでいる途中の電子の、位置や速度
を問うことは無意味なのである。
無意味という意味は、このとき電子という存在
には、位置や速度というものが付随していない
ということである。
・・・
このような電子の存在を、われわれが認識する
のは、電子が他の物質と相互作用するときである。
(電子銃とか蛍光スクリーンとか)。
そしてこの「観測装置」が、一個の電子という
ようなミクロな存在ではなく、電子や原子の大
集団というマクロな存在であるとき、その電子
はある場所に点状に現れたり、ある決まった
速度をもった流れとして現れたりするのである。」
<原子100個でできた宇宙に時間は存在しない>

ミクロの世界に時間はない。ではミクロとマクロ
の境界をどこにもうけるのか?

「DNAの分子量を目安とすれば、少なくとも1兆個
の原子がなければ生命は存在しえないといえる
だろう。
(10ミリリットルの水は、1兆x1兆個に近い原子
からなっている)」

「一つの結論をいえば、われわれがもっている
人間的時間の概念は、少なくとも1兆個以上の
原子が存在するマクロな物質世界にしか通用しない
概念だということである。」
<時間が存在しない世界の振る舞いによって
定義される時間の基準>
「ミクロの存在である原子のふるまいによって、
1秒が正確に定義される。それゆえ、われわれは
ついうっかりと、ミクロの世界にこそ厳密な時間
が存在するのだと勘違いしてしまう。
ところが、話はまったく逆なのである。」

<1秒の定義>
「セシウム133原子の基底状態の二つの超微細
エネルギー準位の間の遷移に対応する放射の
91億9263万1770周期の継続]

しかし、これはあくまでも定義である。
1回の振動時間を計り、それを91億9263万1770倍
すれば1秒を正確にカウントできるわけだが
そのような測定手段は神様でもつくることは
できないのだ。

補記<1秒>—————
1930年代-1956年
地球の自転を基準(地球1回転の86400分の1を1秒)
100年に千分の一秒の誤差

1956年地球の公転を基準とした1秒に変更。

1967年現在使われている原子時に変更。
(原子時は,おおよそ160万年に1秒の誤差)
<無の世界>
「もし光子が意識をもっているとすると、それは
どのような世界を体験するのだろうか。
相対論が正しいとすれば、光速に近づくにつれて、
空間の縮みと時間の遅れは極限に達するから、
宇宙空間を飛んでいる光子は、一瞬のうちに宇宙の
果てに到達する。
つまり、光子にとって、宇宙の大きさはゼロであり、
流れる時間もまたゼロである。つまり、光子にとって
は時間も空間も存在しない。光子にとっては無である
ような世界の中に、われわれは広大な空間と悠久の
時間をみているのである。」
本書の最大の目的は、「時間の流れはなぜ過去から
未来にむかわなければならないのか」という問いである。

「相対論では、過去と未来は完全に対称的である。」
「相対論的時間はマクタガードのいうC系列なのである。」

<マクタガードのC系列>
生きている自分にとって、時間はいつも「今現在」である。
このような時間がA系列である。

歴史年表のような客観的な時間、つまり過去から未来に
向かって順番にならんでいる時間がB系列である。

C系列の時間とは、もはや時間とは呼べない、ただの
配列のことである。
例えば、1-田中さん 2-石川さん 3-鈴木さん・・・
単なる名簿であって、それらの数字の間に、時間的な
順序関係は何もない。
このような時間とは関係のない単なる配列を、C系列と
呼ぶのである。

マクタガードは言う「A系列の時間も、B系列の時間も
存在しない。しかし、C系列は存在する可能性がある。」
<過去へ旅する反粒子>
「素粒子物理学では、反粒子(反物質)は過去へ
「旅する」粒子と見なされる。これは比喩でも何
でもなく、あらゆる粒子にはその反粒子が存在し、
それらを未来から過去へ向かって進む粒子と見な
して、すべてが説明できるのである。
<ただ存在する、ということ>
「われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、
宇宙はただ存在するだけである。
そこには、空間的拡がりや時間的経過というものは
ない。・・・
時間も空間も存在しなければ、何ものも存在できない
だろうと考えがちだが、そうではない。
光子にとっては時間も空間も存在しないが、しかし
それでも光子は存在する。
実在とは、時間や空間を超越した何かなのである。
それは「モノ」ではなく、「情報」とか「関係」とか、
そういうなんらかの「コト」なのかもしれない。
・・・
カントもいうように、われわれは真の実在「物自体」
を認識することは、けっしてできないのである。」
<意思と時間>
「放っておいても、自然法則だけにしたがって、
ひとりでに秩序が持続するような世界に、「意思」は
生まれるであろうか?」

世界を神がつくったとするならば、何故、悪が存在す
るのか・・・という質問がある。
この本を読むと、”ひとりでに秩序ができあがらない”
世界だからこそ「時間」が生まれたのだ。
人は、平和を願い、全ての人が幸福になればいいと
考える、しかし、もしそれが実現されたとき、
私が想像するに、それは”時間がない世界”に等しい。
<宇宙は、C系列(時間とは呼べない、ただの
配列のこと)として存在するだけである>

われわれはA系列(今にのみ存在する)に生き、
そしてB系列(人間のみが持つ記憶、歴史の認識)に
生きる。つまり主観的時間を創造した。

「われわれは、ささやかではあるが、未来の宇宙を
どうするかの自由をもつ。すなわち、われわれは
宇宙の創造に参画しているのである。これは驚異と
しかいいようがない。
宇宙はただ存在するC系列なのに、われわれにとって
はまだその絵(宇宙)が完成していないように見える
のは、不思議ではない。
われわれの「意思」は刹那にしか存在せず、しかも
その刹那は誰とも共有できない、時空の一点の事象
にすぎないからである。「意思」はその狭い刹那の
時空に生きているのであり、そこには過去も未来も、
他の空間も存在しない。
驚異なのは、そのような「意思」が誕生したことで
ある。時間を創造し、そこに「生きる」という自由
を得た存在が、現に存在することである。」
<タイムマシン>
タイムマシンは可能であるか?
結論から言えば、可能である、というよりも
すでに反粒子のように、過去に旅する物質もある。

しかし、問題なのは、”人間”が過去へ旅すること
が出来るのか?ということである。
それは、出来ない。「意思」の問題である。
「エントロピー減少の法則が成立する宇宙には、
「意思」は存在しえない。」
「つまり、われわれは、人間的時間感覚を保った
まま、時間を過去へは遡れないのである。
「意思」のない物質であるなら、そういうことは
可能かもしれない。・・・
人間がそれ(タイムマシン)に乗るということは
たぶん死を意味するであろう。」

なぜなら、「意思」を亡くした人間などありえない
からである。
<ニーチェの永劫回帰>
「いかに多数とはいえ分子の個数が有限であるかぎり、
それらの分子が有限の空間の中をニュートン力学に
したがって動いているとすれば、有限の時間内に必ず
同じ分子配列が再現される。
それゆえ、今現在の宇宙(それには人間の活動も含まれる)
の状態は、はるか未来のことであろうが、そっくりそのまま
繰り返されるはずである。
よって人間の歴史もまた、未来永劫にわたって、無限に
繰り返されるに違いない。ニーチェはそのように考えた
のである。」
この永劫回帰は、机上の空論である。
われわれは、数学と物理学を厳密に区別する必要がある。

粒子が全空間を巡ることは、数学的には可能だが物理的
には意味のないことである。

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