「山岡鉄舟の武士道」勝部真長
<浅利又七郎>鉄舟は剣の人である。
9才で、真影流を学び、10才で玄武館の竜虎と
称せられた井上八郎に北辰一刀流学び、
17才で江戸、千葉周作の道場で北辰一刀流を
続け鬼鉄と恐れられた。
その鉄舟を28才から17年間(明治十三年三月
三十日まで)苦しめた浅利又七郎とは?
一刀流は伊藤一刀斉に始まり
二代目、神子上典膳(みこがみてんぜん)
三代目、小野次郎右衛門忠常
これ以後、小野派一刀流と呼ばれる。
六代目、中西忠太が出て、中西派が生まれる。
中西派十二代目浅利又七郎
(若狭小浜藩酒井家剣術師範)
中西派十三代目千葉周作
浅利又七郎から「極意一刀流無想剣」の許しを
得、それを「無刀流」と名付けた。
明治21年(1888年)7月19日、早朝、辞世の句
「腹張りて苦しき中に明烏(あけがらす)」を詠む。
7:30am 沐浴、白衣に着替え。
9:00am皇居に向かって結跏趺坐。
9:15am結跏趺坐のまま、往生を遂げた53才。
鉄舟:身長188センチ体重105キロ
<山岡鉄舟の生涯>
1836-1888(明治21年)
御蔵奉行小野朝右衛門の五男として江戸、本所
大川端に生まれる。
10才、北辰一刀流を学ぶ
13才、禅を学ぶ
15才、岩佐一亭より入木道五十二世、「一楽斉」を名乗る。
注:「入木道」:書道と同義。
書聖・王羲之(おうぎし)が板に書を書いたところ、板を
削っても木の中まで墨がしみこんでいたという故事が語源。
16才、母死去(41才)
17才、父死去(父の遺産、3500両)
20才、江戸、講武所、千葉周作のもとで剣を修業。
山岡静山に槍を学ぶ。
山岡の妹英子(ふさこ)の婿となる。
28才、浪士隊(新撰組の前身)の取締役。
浅利又七郎に出会う。
・・・
勝海舟、西郷隆盛との出会い、無血開城、
茨城県参事、伊万里県権・・・
・・・
37才、西郷のたっての依頼により明治天皇に仕える。
45才、三月三十日、大悟、滴水和尚の印可を受ける。
浅利又七郎の壁をついに破る。
48才、全生庵(谷中)、鉄舟寺(清水)建立。
49才、白隠禅師の国師号宣下に尽力。
51才、大蔵経の書写を始める。
53才、胃ガン、2月より流動食のみ。7月17日死去。
会葬者5000人、「全生庵殿鉄舟高歩大居士」
<鉄舟の書>
生涯に100万枚書したという説もある。
健康を害してからでも、明治19年5月から7月までに
30000枚、その後の8ヶ月間に101,380枚を書く。
死の1〜2年前のことである。
<偽物を飾った鉄舟>
ある日鉄舟が柳原を散策していると、鉄舟自筆の書
が骨董店に並んでいた。しかし一見して贋物だとい
うことがわかったが、よくよく見てみると筆意玄妙、
はるかに自分に勝るところがあり、鉄舟感心してこ
れを買い求め、我が居室に飾ったという。
<勝海舟と鉄舟>
明治元年3月5日の、「海舟日記」
「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに
感ず。」
海舟46才、鉄舟33才
<「山岡鉄舟の肖像に賛す」>
英邁(えいまい)豪果
一好男子
撃剣精妙
衆理悟入
八万の子弟
誰かそれ是に比せん
(勝海舟)
旗本八万旗の中で鉄舟ほどの人物はいないと
いうのである。
<「山岡鉄舟霊前」>
凡俗しきりに君を煩わす
看破す塵世の群
我をすてていずくにか去る
精霊紫雲に入る
(勝海舟)
<「武士道」談(籠手田&鉄舟)>
「世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・知・信
とか、節義・勇武・廉恥とか、あるいは同じよう
なことで、剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲とか、
言いかえれば種々あって、これらの道を実践躬行
する人をすなわち、武士道を守る人というのである。」
(鉄舟)
「武士は心胆の鍛錬をしているから、なにごと
でも卑怯ではない。事に臨んで挫折しない。
非常に忠である。」
(鉄舟)
<西郷隆盛>
幕末、様々な思想のうねりが
あり、互いに、反目、殺し合った。
「要するところ、どれも皆、至誠の丹心から
発したのだから、以上各士はいずれも非難のない
至誠の武士道的人物である。
世人の国賊と呼ぶ西郷君のごときも、拙者(山岡)
は仰いで完全無欠の真日本人と信じて疑わない。」
<西郷が酒徳利をもって山岡宅訪問>
外部を暖めるには、まず内から・・・
「喜びあって、直ちにたって台所に行き、
漬物桶から二本の塩漬大根をひきだし、
自ら(山岡)これを井戸水で洗い、
そのまま二本の丸大根を盆にのせ、
めしくい茶碗二個を添えて奥室に来て、
南州(西郷)先生と共に汲み、共に飲む。」
徳利と盆に二本の丸大根、
酒を酌み交わしている山岡と西郷、
時々、丸大根をかじりながら飲んだのだろう。
ほほえましい風景である。
<おれは日本の婦人には感心だよ(海舟)>
「神代のころより今日まで傑士が大事業をなした
事跡を探ると、大略女子からはげまされてやって
いるよ。
・・・
女子が腕力で男に勝たなくても、婦人の秘才のある
やつにいたっては、男子の心をくじく奥義は真に
妙だよ。」
<赤穂四十七士批判(葉隠)>
佐賀鍋島藩「葉隠」では、赤穂浪士(あこうろうし)
を「上方風の打上りたる武士道」と批判する。
理由:
吉良は60すぎた老人でいつ死ぬかわからないのに、
実行が遅すぎる。
1年以上も待っているというのは、計画をたて、
必ず成功しようという打算がはたらくからでえある。
たとえ失敗しても、それは最重要なことではない。
とにかく仇討ちの志を今すぐに表現することこそ
何にもまして尊い。
また、赤穂浪士は泉岳寺、主君の墓前に吉良の首を
供えたあと、直ちに一同切腹すべきだった。
直ちに自決してこそ武士道が全うするのである。
あそこでべんべんと生き長らえたのは、不純である。
心情においていやしいものが感ぜられる、というのが
「葉隠」の批判である。
<相抜け>
技量伯仲して、どちらも進むも退くもできず、そのまま
闘争心がなくなってしまうことを「相抜け」という。
針谷夕雲、上野国針谷の人、七十余才で病死、一生浪人。
真剣勝負52度、弟子2800人、新陰流、52才から夕雲流となる。
針谷夕雲70才、その弟子小出切一雲34才の極意試合(印可
を与えるか否かを試す試合)は、「相抜け」に終わった。
「「相抜け」という表現を剣道において使ったのは
、後にも先にも夕雲(せきうん)流が初めてであろう。」
<明治の教養>
「福沢諭吉ですら「左伝」十五巻を十一度読み通して、
その内容は全部暗誦していた。」