「散るぞ悲しき」梯久美子
–硫黄島総指揮官・栗林忠通–<歴史上空前絶後の硫黄島の戦い>
面積わずか22Km2。世田谷区の半分にも満たない硫黄島。
硫黄島は半日もあれば徒歩で一周できるほど小さい。
そこで日米合わせて8万人の兵士が36日間戦った。
岩と砂でできたこの島には川が1つもない。つまり、水が
ない。
米軍が上陸してくる7ヶ月も前から、1人の女性も子供も
いない男だけの島となった。
硫黄島の戦いは、「勝つ」ことを目的としていない。
長い間「敗けない」ことである。硫黄島が米軍の手に
落ちるということは、日本の都市が大規模な空襲に見
舞われるということであった。
昭和19年12月8日、上陸の前哨戦として爆撃が始まった。
この日だけで、戦闘機と爆撃機はのべ192機、投下され
た爆弾は800トン、重巡洋艦3隻、駆逐艦6隻から6,800発
の艦砲射撃。
この日から上陸まで1日も休まず、実に74日間連続で
行われた。74日間に投下された爆弾は6800トン、12月から
1月にかけて5回にわたって行われた艦砲射撃の砲弾数は、
16インチ砲203発、8インチ砲6,472発、5インチ砲,15,251発。
地上の一木一草は全て死に絶えた。
米軍にしてみれば、島そのものが消えてなくなってもお
かしくないほどの砲爆撃だった。しかし、偵察機が撮影した
航空写真によれば、爆撃を開始した時点で450だった主要陣地
が、上陸直前には750に増えていたのである。
米軍によってこの島に投下された砲弾・爆弾を全部合わせる
と、全島の表面を厚さ1メートルの鉄板で覆うに等しい鉄量
になるという。
<米国における”硫黄島”>
「「”カミカゼ・ソルジャー”と”イオージマ・ソルジャー”
は特別だ—ある米軍人からそう言われました」
やはり捕虜となった石井周治は、サンフランシスコの収容所で
の経験を次のように回想している。
ある日のことであった。ガードの一人が、
「君達は一体どこで捕虜になったのか」
と聞くので、
「硫黄島で・・・」
と答えると、ガードは一瞬ハッとするように顔色を変えて
銃を持ち直した。
われわれの方が逆にびっくりした。」
(「硫黄島に生きる」)
「硫黄島で戦った日本兵たちが捕虜収容所で浴びたのは、
恐れと敬意が入り交じった視線であった。彼らの修羅の
ごとき戦いぶりは、米軍人なら知らぬ者はなかったのである。」