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いきの構造(九鬼周造)

<「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である>
「媚態は異性の征服を仮想的目的とし、
目的の実現とともに消滅の運命をもったもの
である。永井荷風(ながいかふう)が「歓楽」
のうちで「得ようとして、得た後の女ほど情
(なさけ)無いものはない」といっているのは、
異性の双方において活躍していた媚態の自己
消滅によって齎(もた)らされた「倦怠、絶望、
嫌悪」の情を意味しているに相違ない。」

<「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である>
「「いき」のうちには溌剌(はつらつ)として
武士道の理想が生きている。「武士は食わねど
高楊枝(たかようじ)」の心が、やがて江戸者の
「宵越(よいごし)の銭(ぜに)を持たぬ」誇り
となり、更にまた「蹴(け)ころ」「不見転
(みずてん)」を卑(いや)しむ凛乎(りんこ)
たる意気となったのである。
「傾城(けいせい)は金でかふものにあらず、
意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓
(くるわ)の掟(おきて)であった。「金銀は
卑しきものとて手にも触れず、仮初(かりそめ)
にも物の直段(ねだん)を知らず、泣言(なき
ごと)を言はず、まことに公家大名(くげだい
みょう)の息女(そくじょ)の如し」とは江戸
の太夫(たゆう)の讃美であった。」

<「いき」の第三の徴表は「諦め」である>
「運命に対する知見に基づいて執着(しゅう
じゃく)を離脱した無関心である。・・・
要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、
流れのうき身」という「苦界(くがい)」に
その起原をもっている。そうして「いき」の
うちの「諦め」したがって「無関心」は、
世智辛(せちがら)い、つれない浮世の洗練
を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する
独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない
恬淡無碍(てんたんむげ)の心である。」

「「いき」の「諦め」は爛熟頽廃(らんじゅ
くたいはい)の生んだ気分であるかもしれない。
またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的
に獲得したものであるよりは社会的に継承した
ものである場合が多いかもしれない。
それはいずれであってもよい。ともかくも
「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、
「諦め」に基づく恬淡とが否(いな)み得な
い事実性を示している。
そうしてまた、流転(るてん)、無常を差別相
の形式と見、空無(くうむ)、涅槃(ねはん)
を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむ
かって諦めを説き、運命に対して静観を教える
宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうち
のこの契機を強調しかつ純化していることは
疑いない。」

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