禅学入門(鈴木大拙)
<禅とは何か>「禅にあっては個人的経験を以て一切とする」
「いやしくも仏教が東洋に発達して、人々の
精神的要求を充(み)たさんとするならば、そ
れは必ず発達して禅とならねばならない。」
「禅に神なしと言えば、敬虔な読者は驚くであ
ろうが、これは禅が神の存在を否定するという
のではなく、否定も肯定も禅の関知するところ
ではないのである。」
「禅寺にある仏陀や、菩薩や、諸天師やその他
の仏像は、木や、石や、金属の陳列のようなも
ので、あたかも私の庭園に咲く椿や、躑躅花や、
石燈籠のようなものである。」
「禅はともかく実際的であり、平凡である。そ
して溌剌として生きている。」
<清浄とは何か>
「一僧が尋ねて曰く「維摩経に、浄土を願うもの
はその心が清浄でなくてはならぬとあるが、清浄
とは何か」と。
禅師は答う、「絶対に清浄な意識が得らるる時、
これを浄心と言うのだ。この心と言うのは、浄と
不浄との二元を超えることだ。
どうしてそれを実現するかと、お前は聞きたがる
だろう。それはお前の心をすべての事情の下で徹
底して空しくするのだ。そのとき清浄が得らるる。
しかしこの時何か所得があるなどと思ったら、も
う不浄だ。浄とも不浄とも思わぬ時、そこに絶対
清浄がある。」
<努力の跡があってはいけない>
「禅は不純を嫌忌する。人生は芸術である。そして
完全の芸術のように、それは自己没却でなければな
らない。
そこには一点努力の跡、あるいは労苦の感情があっ
てはならぬのである。
禅は鳥が空を飛び、魚が水に游(およ)ぐように生
活されねばならない。努力の跡が現わるるや否や、
人は直ちに自由の存在を失う。
彼はその本然の生活を営んでいないのである。彼は
境遇の圧迫を受けている。何物かの制圧を感じてい
る。そしてついに自分の独立を失うに至るのである。」
<非論理的なる理由>
「禅は敢えて自ら好んで非論理的を装っている
のではない。それはただ人をして論理的一致が
最善ではないこと、また知的聡明によって得ら
れざるある種の超越した提唱の存在することを
知らしめるためである。」
<悟り>
「禅修行の目的は事物の観察に対する新見地を
獲得することにある。」
「禅でこの新見地を獲得することを「悟り」と
言う。」
「人の心が悟りに熟して来ると、それはどこへ
も自ら落ちて来る。
かすかな音や、わからぬ言葉や、花や木や、ま
たは石に躓(つまず)くような些細なことなど、
これらはいずれも人々の心を悟らせるに充分な
条件となる。」
「禅には、人の知識に添加し得るようなものは
ない。また何らの説明すべきものもなく、また
教ゆべきものもないのである。自分から生まれ
る知識でなければ、真に自分のものではない。」
<悟りの風景>
「悟りを得なければ、何人も禅に真理に入るこ
とは出来ない。悟りは今まで夢想だにもされな
かった真理に対する新しい意識への突然の閃き
である。それは知的または表現的事項を多く積
み重ねた後に、一時に起こるところの一種の心
的激動または爆発である。この分別的堆積が絶
頂に達して、もうこの上積まれぬというところ
まで行くと、この建物は地上に倒れる。
その時に新しき天が眼の届く限りに開けるので
ある。氷点に達する時に、水は忽然として氷と
なる、液体が一時に凝固する、もはや流れない。
悟りは人がその全心全体を消耗しつくしたと思
う時に、不意に来るものである。」
<公案と坐禅について>
禅における臭味は公案と坐禅である。それ
らは、悟りへの道で、必ずや必要なもので
はない。しかし、これらは”禅”のプレゼ
ン(アピール)ツールとしては最適なので
ある。文字や形のないものは伝えることは
出来ない。バイブルも神様もいない禅にと
って「公案と坐禅」は最低限の譲歩表現な
のである。
だから、坐禅をすれば禅がわかる、などと
勘違いしてはいけない。要は、論理の壁を
破る、というただ一点なのだから。
<公案は眼であり、坐禅は脚である>
「公案と坐禅とはいずれも「禅」そのものの
婢僕(ひぼく)である。すなわち前者は眼で
あり、後者は脚である。」
<公案は決して役にたたないものでもない>
「公案は迷語でもなけれな頓知(とんち)で
もない。・・・公案に対して捨身にぶつかる
ことは、意想外にも従来意識されなかった、
心中の領域を開くのである。・・・(これに
よって)禅は、単なる知性以上のある物であ
るという確固不抜の信念が獲られるのである。」
<坐禅と公案は、禅のプレゼンテーション>
「禅が今なお栄えて、正統な唱導をみるのは、
ただ日本においてのみである。これは坐禅修行
と関連して公案を示す方式によるものであると
信ずる理由は多々存している。そしてこの方式
が人為的であるのは確かであるが、それは恐る
べき失敗から吾々多数を保護してくれる。
しかして禅の生命はこれを通じて持続されてい
るのである。
この方式をほどよく求める人々には、本当にす
ぐれたる師匠の下にあって、禅経験は可能であ
り、悟りが必ず得られるだろう。」
<坐禅と公案なんかなくても、悟ることは出来る>
「日本の禅を全滅から救ったものは公案であっ
た。・・・(しかし)ある人は言うであろう、
「・・・禅は経過・組織・訓練の臭味をすべて
除外して、単純絶対の経験にとどまるべきもの
であらねばならない。公案は無用の長物、皮相
な存在物、まったくの矛盾である」と。
理論的に言えば、あるいは絶対的見地からすれ
ば、この言は正しい。・・・吾々が公案あるい
は組織を口にするのは、それは単に禅の実際的
慣習方面を言う時においてのみである。」