鈴木大拙の歴史
漢方医の父は、男子4人に「易」より採った元・享・判・貞を太郎に冠して名付けた。
末子の大拙は、貞太郎。
大拙は円覚寺の釋宗演老師より頂いた居士号。
大拙は6才で父を、20才で母を亡くした。
第四高校で、終生の友、西田幾多郎と出会うも、
廃藩と銀行破産に遇い退学、小学校英語教師となる。
東京専門学校(早稲田大学)で坪内逍遙の英文学
講座を聴く。
明治26年、釋宗演老師のシカゴ講演原稿を英訳し
夏目漱石にみてもらう。
「その時分、円覚寺の帰源院に夏目漱石が来て
参禅をしておって、わしが翻訳したものを
見てもらったことがあるな。」(大拙)
スウェデンボルグの日本への紹介者。
昭和14年、夫人、ビアトリス没
昭和20年、西田幾多郎没
昭和41年、大拙、聖路加病院で没
戒名「也風流庵大拙居士」
遺骨:
東慶寺、
金沢市野田山鈴木家墓地
高野山奥院墓地
<ショーペンハウアーと鈴木大拙>>
大拙は師、宗演のシカゴ講演でポール・ケーラスと
出会う。
ケーラスはショーペンハウアーに師事し、友人には
物理学者エルンスト・マッハがいた。
ケーラスの活動はアメリカにおけるジェイムズの
プラグマティズムの基礎をかためることになった。
ケーラスの書「仏陀への福音」の翻訳が、大拙の
処女出版となった。
ケーラスがもし、ショーペンハウアーに師事して
いなかったら、鈴木大拙に興味を示すことは
なかったかもしれない。
ショウペンハウアーほど日本の文学者を魅了した
哲学者はいない。
<大拙君のこと>
「私は多くの友人を持ち、多くの人に
交わったが、君の如きは稀(マレ)である。
君は最も豪(えら)そうでなくて、最も
豪(えら)い人かもしれない。
私は思想上、君に負う所が多い。」
(西田幾多郎)
<大拙と南方熊楠>
アメリカに渡って二年が過ぎたある日、当時
ロンドンにいた熊楠に対して、おそらく師・釋宗演
と万国宗教者会議で交流のあった土宜法竜を窓口と
して、大拙は手紙を送った。
熊楠が残した「ロンドン日記」によれば、それを
契機として、明治39年の4月から12月にかけて、
シカゴとロンドンにいた両者の間で、数回に及ぶ
書簡のやりとりがあったようである。
<歩く>
「東京へ出て間もなく、三井の頭取をしていた
早川千吉郎さんに会って、かねて座禅をしたい
したいと思っていたものだから、鎌倉円覚寺に
行くよう紹介されて、行くようになったわけだが、
鎌倉へ行くには、わしは歩いて行ったな。
夜八時ごろ東京の西片町を出ると、翌朝鎌倉へ
着くんだ。」(私の履歴書)
<乃木大将の汽車通勤>
「わしが学習院に奉職した時、院長は乃木大将で、
大将は目白から新宿まで汽車、新宿から電車で
青山へ帰られたように覚えている。
大将は汽車に乗っても、いつも中に入らないで、
扉の外の出入口近くに立って乗っていられたようだ。」
<わしも92才・・・>
「わしも92才・・・
めんどうなことをいちいちいわれ、次から次に
本を見せてくれ見せてくれといって来られては、
勉強の邪魔になって困る。
生きている間にやらなくてはならん仕事が
まだまだ残っている、後5年は生きていないと
仕事が片づかない。」
<サイン>
在家仏教教会記念講演(大阪)でのこと。
大拙氏がサインをするのを増谷氏が横から
見ていた。
「こう書いておりました。
いまだによく覚えております。
To do is my religion.
(善をなすのが私の宗教)
それからはっとおもって見ておりましたら、
The world is my home.
(世界は私の家)
と書きました。」
<掛け軸>
「鈴木先生の家に行ったとき、床の間に
「一日作さざれば一日食わず」
と西田幾多郎先生が書いたのを、たった一幅
掛けてあって、あとは飾りは何もなかったのを
、今でも覚えているのであります。」(増谷)
<子供らしさ>
「鈴木博士は又、誰であれ、偉大なことを
なしうるには、その前に、自己を忘れる術(すべ)に
よって長年の修練をつんで”子供らしさ”を取り戻さ
れなければならないと言っていられます。」
(「FAS」1966 12 ハーバート・リード)
<古典を残す>
「先生(大拙)は早くから古典的禅籍を立派な
永久的な善本で出版することに熱意を注いで
来られた。・・・・
もとより、先生にとっては、本文が大切なので、原典を
吟味し、選択されたのはもとよりだが、書物としてこれ
が永久に保存されて、古典がこの地上に永く大切にされ
るように心入れをされているのである。
先生を禅の鴻学として尊ぶ人は大勢いるが、
先生の学者としての一生の半面に、こういう
善本の刊行への並々ならぬ熱意があることを
知っている人は少ないのではあるまいか。
・・・・
先生自身の本が粗末極まるものが多いのに
比べて大変面白い事実だと私(柳)には
思われてならぬ。
これにつけても、いつか先生の著作の
(少なくともその或るものを)善本にして
残すのは、われわれの仕事だとも感じられて
ならぬ。
・・・・
早くから、先生の学生の一人であった私は、
幾分なりとも東洋的自覚にたって、先生の
衣鉢の幾分かを継いで、先生の恩に報いたい
念いに強くかられる。」
(「春秋」1959 12 柳宗悦)
<親鸞・道元に見劣りがする?>
「当時、二十歳をこえたばかりの私(志村)は、
先生(大拙)にずいぶんとぶしつけな質問を
したものであった。
「先生は学は東西古今にわたり、数カ国語を
マスターしておいでです。にもかかわらず、
親鸞や道元のような人と先生を比較してみると、
どうしても見劣りを感ずるのですが、
これはいったい、どういうわけなのでしょうか」
この質問に対して、先生は深く歎息されながら、
「それは誠(まこと)のためだ。
誠というものには限りがない。真剣になって
誠を尽くそうとすればするほど、それだけ、
尽くしきれない面がマイナスになってはねかえって
くる。
私には、そのマイナスに立ち向かう気力が不足して
いるのだ。わしにはまだまだ誠がたりないのだ。」
と答えられた。」
(志村 武「大法輪」33巻9号1966.9)
「わしは、ただ分からないことを分かろうと
一生懸命つとめただけだった。自分の能力の
可能性などということは全然考えてもみなかったよ。」
(大拙)
<私の健康法>
「司会者が、93才になられた先生の、健康法に
ついてお尋ねすると、先生はにこやかに、
「私はただ明日のことを考えるだけだ。私は来年は
アメリカで万国宗教大会があるから、それに是非
主席したい。そのために、私の健康は大丈夫だろうか
と思って、聖路加病院へお世話になったのです。
人間は過去のことにこだわらないで、過ぎ去ったこと
は忘れ去ってゆく。あるのは今日から未来へという
ことだ。
いつも未来を考えている人間が即健康を保ち得る
わけだ。
勿論忘れがたいことも随分あるだろうが、あえて、
今日から明日へ、来年また来年と、将来に希望を
かけることが私の93才の生涯の健康法だ」
といわれました。」
(加藤栄三「大法輪」33巻90号1966.9)