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禅(鈴木大拙)

<すべての日本人に読んでほしい>
「この書は、自分が過去45年間に公にした大小
の英文の著作から、主として禅の本質と解せられる
ものを選出して邦訳し、一小冊としたものである。
それで、この書を一読すれば、大体、近代的に禅の
何たるかを知得することができるわけである。」

補記:
英文で書かれたとき、どうしても英文に翻訳できない
、という苦労をされたにちがいない。そして、また
これを日本語にするにあたっても同様の苦労をされた
はずだ。
しかし、この二重の苦労をしたこの著作は、禅という
ものを世界に伝えるにはまたとない貴重な遺産となった。

また、古典を読めない若い日本人にとっても読みやすい
ものになっている。

私は、すべての日本人にこの書を読んでほしいと
願っている。そうすれば、日本の良さを実感できる
のみでなく、世界の中の日本人として、卑屈になること
も傲慢になることもない自分を構築できるだろう。

<禅とは>
「禅は、仏教の精神もしくは真髄を相伝するという
仏教の一派であって、その真髄とは、仏陀が成就した
<悟り>を体験することにある。」

<禅は慧能(えのう:638-713)に始まる>
「禅の意図するところは、つねには智慧が眠っている
意識の奥底から、その智慧を喚び覚ますことにある。」

<智慧は最高度の直観>
「智慧は最高度の直観に相当する。慧能の時代には、
心を鎮める禅定の実行によって精神の集注をはかる
偏った傾向が大勢を占めていたが、彼(慧能)はこれに
反対して、智慧の覚醒を強調した。
かくて慧能は、中国仏教の歴史の中に革命的な動きを
ひき起こしたのである。」

<禅の二つの要素>
「(禅の)教えは二つの要素からなる。智慧と慈悲である。
・・・
慈悲とは、同胞が智慧に自覚に到るのを助けようとして、
さまざまの工夫を生み出す創造の源なのである。
・・・
・・・
禅が今なお生きた力としてあるのは、日本においてのみ
である。」

<ノドが渇いたらみずから水を飲む必要がある>
「まことに、みずから悪をなしてみずから傷つき、
みずから悪をなさずしてみずから浄(きよ)らかである。
浄と不浄とはおのれみずからに属し、
誰も他人を浄めることはできない。」
(「法句経」165,166)

<全ての問いはおのずから解決される>
「問いはけっして問う者から引き離さるべきではない
とするのが、仏教の行き方である。
両者が分たれているかぎり、問う者に解決はもたらされ
ないであろう。
・・・
問いを解くとは、それと一つになることである。
この一つになることが、そのもっとも深い意味において
行われる時、問う者が問題を解こうと努めなくとも、
解決はこの一体性の中から、おのずから生まれてくる。
その時、問いがみずからを解くのである。
これが、「実在とは何か」という問いの解決についての
仏教者の態度である。」」

<道とは>
「ある時、趙州が南泉に問うた。「道とは何ですか」
南泉:「お前の平常心、それが道だ。」

注:平常心:意識的でありながらしかも無意識である
こと、これが平常心である。

・・・
南泉:「道は知にも属さず、また不知にも属さない。
知は迷いであり、不知は無智である。
疑いの影さえささぬ道に到れば、おまえは、それは
無限に拡がる一大虚空のごときものだと知るであろう。
かぎりなく空で、善悪の入る余地もない。」
・・・・

道とは、完全な”悟り”である。」

<仏陀のさとり>
仏陀は家を出た。もっともすぐれた学者に会い、
問うた。満足できなかった。
次に苦行を試みた。
「しかし禁欲は、自己すなわち真理を問うものを、
敵のごとくに遇する。
・・・
自己は非自己があってはじめてあり得るが、その非
自己が敵なのである。自己が敵の創作者である。
問うものはどこまで行っても問うものであり、問い
の創作者である。
・・・
禁欲の修業や道徳の修練では、人はけっして自己を
越えることはできない。」
仏陀は禁欲の修業をやめた。しかし、彼の問いの答え
を知りたいと思う心は募るばかりであった。
「絶対絶命の窮地に追いつめられて、かれの全存在が
反応した。
かれは、もはや解くべき問いもなく、敵に立ち向かう
自己もないことを感じた。
かれの知性が、かれの全存在が、問いの中に注ぎ込まれた。
言いかえれば、かれはいまや問いそのものとなった。
・・・
ふと空を見上げると、明けの明星が見えた。
・・・
すべてが新しい意味をもった。全世界が、いま、新しい
光に輝いていた。」

補記:
私見では、悟りは、仏陀の例のように、すべて、
”絶体絶命”というステージから生まれるようだ。

<表現というもの>
「唐末の禅僧雲門は、ある時、誕生会を祝するに
あたり、次のように言った。
「仏陀が母の胎内から出て来って、この言葉(天上
天下、唯我独尊)を口にした時、もしわしがその場
にいあわせたら、一棒のもとに打ち倒し、死骸を犬に
与え去ったであろうものを。」雲門は、かれ自身の
禅のゆき方で、仏陀の言ったと同じ心(天上天下、
唯我独尊)を繰り返しているのである。」

<仏教を学ぶ人へ>
「仏教を学び、かつ理解するにあたり、何か困難に
ぶつかった時には、われわれはいつでも、仏陀の
”悟り”の体験にその究極の解決を求めなければ
ならない。
この”悟り”がなければ仏は仏ではない。同時に、
仏教もまた、仏陀の”完全な悟り”の趣意に基づく
ものでなければ、仏教ではない。
かくてわれわれは、仏教が他のすべての宗教と異なる
ゆえんを判然と知ることができる。」

<禅の意味>
「禅は、要するに、自己の存在の本性を見抜く術で
あって、それは束縛から自由への道を指し示す。
・・・
われわれのこの身体は、いわば電池のようなもので、
不思議な力がその中にひそんでいる。この力は、
正しく働かせない時には、かびが生えてしなびて
しまうか、あるいは歪められて異常な現われ方をする。
そこで、われわれが狂ったり、片輪(かたわ)に
なったりするのを救おうというのが禅の目的である。」

<愛の風景>
自我中心的な殻を突き破る人生最初の機会は
性的な愛の目覚めである。
「これまで心の奥深くに眠っていた愛が頭を
もたげて、一大騒動を引き起こす。
なんとなれば、いま目覚めた愛は、自我の主張
と、自我の滅却とを、同時に要求するからである。
愛は、自我をしてその愛する対象の中にみずからを
失わしめる。
しかも同時にまた、その対象を自分のものにしよう
とする。これは矛盾であり、また人生の一大悲劇で
ある。
・・・
愛の目覚めによって、われわれは万物の無限を垣間見る。
そしてこの一瞥が、若者を、それぞれの天性と環境と
教育とに従って、浪漫主義へと、あるいは理想主義へ
と駆り立てる。」

<貧の平和>
「貧の平和(けだし、平和はただ貧においてのみ
可能である)は、あなた方の全人格の力をつくしての
はげしい戦いをたたかい抜いてのちに、はじめて得られる
ものである。怠惰や、放任安逸な心の態度から拾い集めた
満足は、もっとも嫌悪すべきものである。そこには禅はない。
ただ懶惰(らんだ)と、無為の生があるのみである。
戦いは、はげしく雄々しく戦われなければならない。
これなくしては、どんな平和が得られたにしても、それは
みな偽物である。
そこには深い基盤がないから、ひとたび嵐にあえば、たち
まち押しつぶされてしまう。
禅はまったくこの点を強調する。たしかに、禅に見られる
精神の雄々しさは、その神秘な飛躍は別としても、勇敢に
臆せずに、人生の戦いを戦うところからくる。」

<人格>
「われわれの日常生活は、人格の外縁にふれるだけで、
心の奥底を揺り動かすには到らない。
宗教意識が目覚めた時でも、たいていの人は軽くそれを
通り過ぎるだけで、心に何ら苦しい戦いの跡を残さない。
われわれはこうして物事の表面を生きてゆくことになる。
われわれは利口で、利発で、さらに様々であるかもしれな
いが、われわれのすることは、深さと真剣さとに欠けてい
て、深奥の感情には訴えてこない。
なかには、間に合わせのものや、真似ごとのほかは、何一つ
として創り出せない者もある。
彼らはこうしてその人格の浅薄さと精神的体験の欠如とを
むき出しにしている。
禅は本来宗教であるが、それはまたわれわれの道徳的性格を
も形成する。
あるいは、深い精神的体験はその人格の道徳構造にも変化を
もたらさずにはおかない、と言ったほうがよいかもしれない。」

<なぜ禅は生まれたか>
「中国人には、インド人のように、神秘や超自然論
の雲の中に身を隠す才はない。
荘子と列子は、古代の中国において、もっとも
インド的な心に近かったが、かれらの神秘主義は、
壮大さ、精妙さ、天翔る想像力の高さにおいて、
インド大乗仏教者の足もとにもおよばない。
・・・
維摩や文殊、さては阿羅漢のどのひとりにも
匹敵し得るほどの中国の聖者、哲人は、歴史に
記されていない。
・・・
中国人は、徹底して実際的である。かれらは、
”悟り”の教えをその日常生活に当てはめて解釈する
独自の方法を持たねばならなかった。
もっとも深い精神経験の表現として、かれらは、
どうしても、禅を生み出さないわけにはいかなかった
のである。」

「彼ら(中国人)が、仏教を”悟り”の教えとして
内に消化理解しはじめた時、その具体的かつ実際的な
心に開かれた唯一の方向は、禅を生み出すことで
あった。」

<仏教を理解したとき禅が生まれた>
「中国の人々が仏教の教えを完全に理解した時、
かれらの心が要求したのが、すなわち”禅”で
あったが、このことは、議論の余地のない二つ
の歴史的事実の証明するところである。
第一に、禅が確立してのち、中国を風靡したのは
この教えであって、仏教の他の宗派は、浄土教を
除いて、どれも存続し得なかった。
第二に、仏教が禅という形をとる以前は、仏教は、
中国固有の思想と密接な関係を持つことはできな
かった。
ここで中国固有の思想とは、儒教をいう。」

<仏教誕生by禅>
「禅が中国の仏教になったのは、菩提達磨(528没)
の力による。
・・・
禅の種子は、彼(達磨)の手によって蒔かれたので
ある。
・・・
禅の種子が実を結ぶのには、それからなお約二百年を
要した。
・・・
六代目の祖師慧能(637-713)が、中国の禅の実際上の
開祖であった。」

唐朝(618-907)から今日なお、ある程度の活力を
保っている仏教の唯一の形は禅である。

「華厳」「天台」「三輪」「倶舎」「法相」「真言」
などが中国で、はやらなかったのは、それらが
あまりにインド的要素が多かったからである。

「中国において仏教は、禅を通して、外国からの
輸入品であることをやめ、この国の心の独自の
創造物に変形した。」

<禅は何故、専門語で語らないのか>
「彼ら(学識ある禅匠)は、その内的経験を言い
表すには、俗語がより力強く、よりよい方法である
ことに気づいた。これは、たいていの精神改革者の
場合に当てはまる。
・・・
使い慣らされ、ふるい意味あいをたくさん持った
専門語を使うことをかれらは極力避ける。」

<「楞伽経(りょうがきょう)」>
—-禅のガイドブック————
仏陀没後二、三世紀の間に編纂された大乗経典
の中で、
「とくに禅宗の教えの普及のために作られたのが、
「楞伽経」であるが、”悟り”の内容がこの経の
中で、言葉の許すかぎり、心理学的、哲学的、
および実際的諸見地から説かれている。」

<禅の要素がない宗教、哲学はない>
「自分の所存では、禅は一切の哲学および宗教の
究極するところである。
すべての知的努力は、もしそれが何か実際上の
効果をもたらすものであるとするならば、ついには
禅に到らねばならぬ。
否、むしろ禅から出発せねばならぬ。」

<直観と信>
「浄土門では、「信」がすべてであるが、禅では
これに反して、「見」もしくは「知」の働きが
強調される。
ただしこれは論理的思考、論証の意味ではなく、
直観的把握をいう。」

<禅は意志の哲学か?>
「人間はわれわれが頭で考えるほどに理性的な
生きものではない。もちろん、かれは推理する。
しかしかれは、純粋かつ単純なその推理の結果の
とおりには行動しない。
推理よりもっと強力な何ものかがある。
われわれはそれを衝動とか、本能とか、あるいは
もっと包括的に、意志と呼ぶ。
この意志の働くところに禅がある。だが、禅は意志
の哲学かと問われるならば、自分は肯定の返事を
することをためらうであろう。
もしどうしても禅を説明せねばならぬ時には、それ
は静的にではなく、動的に説明されねばならぬ。
わたしがこうして手をあげる時、そこに禅がある。
しかし、わたしが手をあげたと断言する時には、
禅はもうそこにはない。」

補記:「意志」といえば、まず思い出すのが
ショーペンハウアーの主著『意志と表象の世界』(1819)

ショウペンハウアーによると,人間はこの意志ゆえに
人生は苦である、とお釈迦さまのような結論を出して
いる。
そして、その苦から逃れる方法を2つ提示している。

1芸術によるイデアの観照。
2仏教的涅槃の境地・無私の精神。

ショウペンハウアーは欧米において最も「禅的」
哲学者であった。

<美術鑑賞の心得>
「見ようと欲するならば、ただちに見よ。
だがそれについて思考しようとすれば、それは
まったく失われてしまう。」
(伝燈録巻十四)

<実存主義と禅の決定的差異>
「「禅が実存主義と袂を分つところはどこか。さまざまな
色合いの実存主義があるが、どれもみな、次のように
考える点で一致している。
すなわち有限なる人間は、神から無限に離れている。
そしてまた「行く手に拡がる可能性の海は恐怖を呼ぶ。
可能性は自由を意味する。そして、かぎりない自由は、
耐え難い責任を意味する。」

禅はこのような思想と無縁である。
なぜならば、禅にとっては、有限はすなわち無限である。
時間はそのまま永遠である。人は神と別ではない。
・・・
禅は無限の可能性、かぎりない自由、はてしない責任に、
何の恐怖すべきものも認めない。
・・・
責任がいかにはてしなく、耐えがたかろうとも、禅は
まるで何も負っていないかのようにそれを負う。」

<キルケゴールの恐怖>
「キルケゴールは恐怖を説いた時、いささか神経質で、
かつ病的であった。かれは、自分が神から離れている
ことを異常なまでに感じ、それで恐怖のとりこになった。
・・・
実存主義者は、たいてい相対の世界で自由を解釈するが、
もっとも高い意味での自由はそこにはない。
・・・
禅は、かれに言うであろう。「なぜ、深淵の只中に飛び
込んで、そこに何があるのかを見ないのか」と。
宿命的な利己主義の考えが、ついにかれが虎穴に飛び
込むのを引き止めてしまうのである。」

<禅は刹那主義ではない>
「禅は無為を擁護したことは一度もない。」

「禅は、ある意味では、刹那主義とみられるかも
しれないが、これは一般に解釈されている意味とは
異なる。
禅は、刹那の中に永遠を有するが、他方、刹那主義
には永遠はない。
刹那主義者にとっては、流れ去る一瞬一瞬は、ただ
流れ去って行くだけで、そこには永遠が伴わない。
ゆえに刹那主義者は悪い意味で無責任であり、
反道徳的である。
瞬間の意識に支配されるがゆえに、かれらは自由でも
なく、自己の主でもない。
・・・
自由なる禅者は、・・・無限を円周とする円の中に
生きる。だから、かれはどこにあっても、つねに実在
の中心にいる。かれが実在そのものである。
・・・
刹那主義は、絶対の現在が何を意味するかを知らない。
禅は、この絶対の現在に生き、ゆえに”如”を覚知する。」

補記:「如」
空(くう)が一切を否定、あるいは拒絶するものと
すれば如は、一切を受け入れ、一切をうけがうもの
である。如とは物事をあるがままに見ることである。

<禅の存在論>
「AをAであらしめるためには、非Aが必要で
あるが、これは、Aの中に非Aがあることを
意味する。
AがA自体であろうとする時には、それはすでに
それ自体の外にある–つまり非Aである。
もしAがその中にそれ自体でないものを持って
いないならば、AをAであらしめるために、
Aから非Aが出てくることはできない。
Aはこの矛盾ゆえに、Aである。
そしてこの矛盾は、われわれが論理化を行なう
時にはじめて出てくる。
われわれが”如”の中にいるかぎりは、何の矛盾
も存しない。
禅は矛盾を知らない。」

<「朝顔や つるべとられて もらひ水」>
(加賀の千代女)

6月の朝、女が井戸に水をくみにきた。
朝顔の蔓が桶にからみついていた。
あまりの美しさに、桶から蔓を外さないで
隣家へ水をもらいに走った。

「彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世の
ものならぬ花の美しさに打たれたかは、彼女が
手桶から蔓をはずそうとしなかった事実によって
うなずかれる。
彼女は、容易に花をいためずに蔓をはずす
ことができたのだった。しかし、美と一体の感
が彼女の心をすっかり奪ってしまっていたので、
この考えは浮かんではこなかった。
天に属するものを、俗世界のいとなみの匂いの
するもので汚そうなどとは、彼女は毛頭考え
なかった。
彼女は自分の用事を考えないわけにはいかなかった。
隣家へ朝の仕事に必要な水をもらいに行く–
これが彼女にできた唯一のことであったろう。」

「心理学的に言えば、俳人千代女は、美の瞑想から
覚めるのに時間を必要とした。しかし形而上学的に
言うならば、彼女が同一化に没入したのと分別に
目覚めたのとは同時である。
そしてこの同時性は、”絶対の現在”に成就する。
それは”如”の”一刹那”である。
これが、禅の哲学である。」

補記:「如」
空(くう)が一切を否定、あるいは拒絶するものと
すれば如は、一切を受け入れ、一切をうけがうもの
である。如とは物事をあるがままに見ることである。

<般若直観–無分別の分別>
「”如”には、純理性的な要素がある。”如”は、
単なる実在の詩的瞑想でもなければ、実在への
没我同化でもない。そこには覚知するものがあり、
この覚知が”般若”直観である。
こうして”般若”直観を、「無分別の分別」と定義
してもよいかもしれない。
ここに、全体がその各部分とともに直観される。
ここに、差別されぬ全体が、無限に差別され個別化
された部分とともに現前する。
全体は、ここで、みずからを多くの部分に分化して
ゆくが、だたしそれは汎神論的、もしくは宇宙偏在論
的な方法においてではない。
全体はその各部分の中において失われず、また個別化
が全体を見失うこともない。
「一」はそれ自身の外に出ずしてそのまま一切であり、
またわれわれの周囲の無限に変化した事物、変化しゆく
事物の一つ一つは、「一」を具現しつつ、なお
それぞれの個別性を保っている。」

<今、一番必要とされるもの>

「”華厳”は、たがいに融通し、たがいに浸透し、
たがいに関連し、たがいにさまたぐることなしという
考え方に基づく。
この一切の相依相関を説く哲学が正しく理解される時に、
”愛”が目覚める。
なぜならば、愛とは他を認めることであり、生活の
あらゆる面において他に思いを致すことだからである。
「すべての人に為(せ)られんと思うことは、人にも
またそのごとくせよ。」これが愛の要旨であり、これは、
相依相関の認識からおのずと生まれてくることである。
たがいに関係をもち、たがいに思いやるという考え方は、
力の観念を排除する。
力とは、内的関係の体制の中に外から持ち込まれるもの
だからである。
力の行使はつねに、専断、独裁、疎外に向かう。」

<華厳の世界>
「愛は自己否定を通して、つねに創造的である。
・・・
愛はけっして破壊と絶滅には赴かない。
・・・
愛と創造力とは一つの実体の両面のすがたである
・・・
力は、われわれ人類同胞の間にひとしく恩恵を
分配しないで、それを独占しがちである
・・・
力とは人を物にかえるちからである
(シモーヌ・ウェイル)
・・・
力はつねに尊大で、独断的で、排他的である
・・・」

「終わりにあたり、繰り返して言う。
存在するものすべての相依相関の真理に目覚め、
たがいに協力する時、はじめてわれわれは栄える
のだという事実を、まず自覚しようではないか。」
(鈴木大拙)

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