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禅と日本文化

「禅と日本文化」(鈴木大拙) 

<わび>
「わびの真意は「貧困」、すなわち消極的に
いえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒
に、おらぬ」ということである。
貧しいということ、すなわち世間的な事物(冨・
力・名)に頼っていないこと、しかも、その人
の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、
最高の価値をもつものの存在を感じること、
これがわびを本質的に組成するものである。」

「禅の心的習慣は、日本人が土を忘れず、いつも
自然と親しみ、飾りけのない単純性を味わうこと
を助けてきた。禅は生活の表面に存する複雑さを
好まぬ。」

<美>
「美とはかならずしも形の完全を指していうのでは
ない。この不完全どころか醜というべき形のなかに、
美を体現することが日本の美術家の得意の妙技の
一つである。
この不完全の美に古色や古拙味(原始的無骨さ)が
伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところのさびが
あらわれる。
古色と原始性とは現実味ではないかも知れぬ。
美術品が表面的にでも史的時代感を示せば、そこに
さびが存する。さびは鄙びた無虚飾や古拙な不完全に
存する、見た目の単純さや無造作な仕事ぶりに存する、
豊富な歴史的な連想(かならずしも現存しなくてもよい)
に存する、そして最後にそれはくだんの事物を芸術的
作品の程度に引き上げるところの説明しがたき要素を
含んでいる。」

<芸術と道徳>
「禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは
結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術で
はありえない。」

<日本の芸術と禅の哲学>
「非均衡性・非相称性・「一角」性・貧乏性・
単純性・さび・わび・弧絶性・その他、日本の
芸術および文化の最も著しい特性となる同種の
観念は、みなすべて「多即一、一即多」という
禅の真理を中心から認識するところに発する。」

注:一角
南宋の大画家の馬遠に発した絵画様式。
できるだけ少ない描線や筆触で物の形を
表す技法。

<禅と武士>
「元来、禅は意志の宗教であるから、哲学的より
道徳的に武士精神に訴えるのである。
・・・
禅の修業は単純・直裁・自恃・克己的であり、この
戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。
・・・
もろもろの情愛と物質的な所有物は、彼が最も
有効的に進退せんと欲する場合には、この上ない
邪魔物になる。
立派な武人は総じて禁欲的戒行者か自粛的修道者
である。
という意味は鉄の意志を持っているということで
ある。そうして必要あるとき、禅は彼にこれを
授ける。」

<柔軟なる思想>
「禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な
理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を
生死の絆(きずな)から解こうとするのである。
・・・
禅は無政府主義やファシズムにも、共産主義や
民主主義にも、無神論や唯心論にも、またいかなる
政治的、経済的な教説(ドグマ)にも結びついて
いる。ある意味では、禅はいつも、革命的精神の
鼓吹者ともいえる。」

<天才が武士や僧侶を目指した時代>
「時頼・時宗のごとき強い人格に導かれて、禅は
日本人の生活に、とくに武士の生活に著しく浸潤
してきた。
・・・
当時の日本の天才たちは僧侶か武人になった。
この両者の精神的協力は、一般に「武士道」として
知られているものの創造に貢献せざるをえなかった。」

時宗がいなかったら、今の日本はなかったかも
しれないと大拙は言う。
そして時宗の夫人も熱心な修禅者であり夫の死後、
円覚寺(時宗が禅を弘めたいという願いと蒙古襲来に
よる殉死者を(敵味方区別なく、冤親平等に)弔うた
めに建立)の真向いの山中に松が岡東慶寺という尼寺
を創建した。俗にいう「縁切寺」である。
大拙も西田幾多郎もそこに眠っている。

<武士道>
「われわれがいま一般に武士道として理解する
ものを作りあげるようになった中心思想は、
武士たるものの威厳を不断にたゆむことなく
擁護するということである。
この威厳とは、忠孝仁義の精神である。しかし、
これらの義務を立派に果たすためには、二つの
事が要る。
一は実践的な方面のみにあらず、哲学的な方面で
も、一種の鍛錬主義を抱持することであり、一は
常住死を覚悟すること、すなわち、その機に臨めば、
躊躇なく身命を放擲(ほうてき)することである。」

<葉隠>
「それは文字通り「葉の陰に隠れる」意で、わが身
を誇示せず、角笛を吹いて廻らず、世間の眼から
遠ざかって、そうして社会同胞のために深情を尽す
のが、武士の徳の一つだというのである。
・・・
この書はいつにても身命を捧げる武士の覚悟を
極めて強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気に
ならずしては、すなわち、現代語で表現すれば、
意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた
力を解放するのでなければ、成就されたためしはない
と述べている。
・・・
武士の修養が禅と提携するのはじつにこの点である。」

<「武道初心集」>
「武士に取って最も肝要な考は、元旦の暁より
大晦日の終りの一刻まで日夜念頭に持たなければ
ならぬは死という観念である。この念を固く身に
体した時、汝は十二分に汝の義務を果たしうるで
あろう。主に忠、親に孝、而して当然一切の災難
を避けることができる。
汝は長命をうるのみならず、威徳も具わるであろう。」

「武士(もののふ)の学ぶ教へは押しなべて
そのきはめには死の一つなり」
(塚原ト伝)

「皮を斬らして肉を斬れ、肉を斬らして骨を斬れ、
骨を斬らして命を取れ」
(荒木又右衛門が、伊賀上野の仇討の時、甥の
渡辺数馬に与えた言葉)

<上杉謙信>
川中島で9才年長の武田信玄に刀を振り
降ろした謙信が言う。
「いかなるか剣刃上の事」
信玄答えて言う。
「紅炉上一点の雪」
二人は禅の愛好者だった。

「生を必する者は死し、死を必する者は
生く。・・・・
生を惜しみ死を厭ふが如きは、未だ武士の
心胆にあらず。」(上杉謙信)

<武田信玄>
「参禅は別に秘訣なし、唯だ生死の
切なるを思ふと。」(信玄家法)

信玄の師は快川(かいせん)和尚である。
信玄の死後、禅院に逃げ込んだ敵兵の引き
渡しを拒んだため、織田信長の兵卒によって
焼き討ちにあった。
その時の言葉が有名である。

「安禅は必ずしも山水を須いず。
心頭を滅却すれば火自ら涼し」
(「碧巌録」第四十三則「洞山無寒暑」)

注:一般に言われる「火もまた涼し」
では”やせ我慢”になる。
「火おのずから涼し」が正しい。

<風流>
戦に忙殺される最中(さなか)、信玄も
謙信も花を自然を愛(め)でた。
「戦の真最中に、信玄や謙信が示した、
かかる利害を超越した「自然」の享楽は
「風流」と呼ばれている。
この風流なきものは、日本では最も教養の
ないもののなかに入れられている。
この感情は単に美的のみならず宗教的な意義
をもっている。
諸芸に通じた教養ある日本人の間に、臨終に
際して詩歌をかく習慣を創始したのも、おそ
らくは同じ心的態度にもとづく。
・・・
日本人は自分たちが最も激しい興奮の状態に
置かれることがあっても、そこから自己を
引き離す一瞬の余裕を見つけうるように
教えられ、また、鍛錬されてきた。」

<武士の宗教>
「禅は、・・・
合理・非合理いかなる結論にもせよ、人が
それに達したものをもって突進することを
説いた。・・・
禅は行動することを欲する。
最も有効な行動は、ひとたび決心した以上、
振り返らずに進むことである。この点において
禅はじつに武士の宗教である。
「潔(いさぎよ)く死ぬ」ということは、
日本人の心に最も親しい思想の一つである。
・・・
「潔く」は「悔いを残さず」「明らかな良心
をもって」「勇士らしく」「ためらうことなく」
「落ち着き払って」などの意味である。」

<正宗と村正>
—刀はそれを作る人の人格が乗り移る—
正宗の高弟、村正は切れ味において
正宗に勝ったが人情味において正宗に
とうてい及ばなかった。

伝説の話はこうである。

水流に刀を立て、枯葉を流した。
村正の刀は枯葉を二つに切ったが
正宗の刀には触れることなく避けて
行った。

「正宗には、正宗の人格からくる何か
精神的に人を打つものがあるといわれて
いる。・・・
柄に銘を刻むのは刀工の習慣であった
が、正宗はほとんどこれをやらなかった。」

<禅がわかりますか?>
「禅がいかにしてつねに刺激を与え思想を
湧かせる原因となったかというに、それは
思想上の上層建築物を無視して、直接に事実
の根元に突き進むことを教えるからである。
・・・・
厳格にいえば、禅には自己の哲学というよう
なものはない。
・・・・
禅徒はときとすると儒教徒、ときとすると
道教徒、また、ときとすると神道家とさえ
なりうるのである。」

<神皇正統記>
「中国民族の知性的発展は、主として南宋に栄えた
朱子(1130-1200)の学にいたってその極に達した。
・・・
華厳哲学は中国における仏教思想の極致であった
といいうる。・・・それとならんで勢力をえて
中国人の心をよりつよく把握したのが禅である。
・・・
彼らは朱子の理想主義と主情主義よりは、朱子の社会
秩論と功利哲学によけい心を惹かれたのである。
この点において、中国人は日本人と違っている。
・・・北畠親房の「神皇正統記」も、また、朱子学
研究の結果の一つである。」

<茶と葡萄酒>
「茶は心神を爽快にさせるが、陶酔はさせない。
・・・
茶は仏教を象徴するならば、葡萄酒はキリスト教
を代表する、といえぬだろうか。
・・・
肥えふとった修道僧たちが樽をかこみ酒盃を
とって、陽気に楽しげにみえる画はわれわれの
ときどき見るところである。
葡萄酒は初めはその飲手をうきうきさせ、やがて
は彼を酩酊させる。多くの点で、茶といい対照を
なすが、このコントラストはやがてまた仏教と
キリスト教とのあいだのそれでもある。」

<沢庵(たくわん)1573-1645>
「今の人は、偏に朋友を招きて会談の媒とし、
飲食を快とし、口腹の助とす。且茶室に美を
尽し、珍器の品を揃へ、手の巧みなるを誇り、
他人のつたなさを嘲る。
みな茶の湯の本意にあらず。
・・・
美麗を好まず、古き道具を以て心を新らたにして
、四時の風景を忘れず、あらそわず、貪らず、
奢らず、謹みて疎かならず、すなほにして
真実なるを茶の湯といふなるべし。」
(沢庵「茶亭之記」)

<軽視と敬>
「禅は寒夜温まるために寺中の仏像をことごとく
焼きうる。禅は外眼には妖(あや)かしに見える
表面の虚飾一切を切り捨てた真理として、その
存在を救うために貴重な遺産を含む文献一切を
破却しうる。
しかし、禅は嵐に裂れ泥にまみれた、つまらぬ
草の葉を崇めることを決して忘れぬ。
あるがままなる野の花を三千世界の仏陀に捧げる
ことをけっして怠らぬ。
禅は軽視することを知るがゆえにまた敬うことを
知る。
他のいかなるものともおなじく、禅に必要なのは
心の誠実であり、そのたんなる概念化や物理的
模倣ではない。」

「技術の完成されるのはそれが技術たることを
止めるときのみである。この時に無技巧の完成が
存し、人間の奥底の誠実がおのずから現れるが、
これが茶の湯における「敬」の意味である。」

<茶の湯の本意>
「茶の湯の本意は、六根を清くするためなり。
眼に掛け物・生花を見、鼻に香をかぎ、耳に
湯音を聴き、口に茶を味ひ、手足格を正し、
五根清浄なる時、意自ずから清浄なり。
畢竟(ひっきょう)、意を清くする所なり。」
(「葉隠」第二巻聞書の二)
「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて
呑むばかりなるものと知るべし」(利休)

<わびさび>(1)
「寂は日本語の”さび”である。が、”さび”は
静寂より内容が広い。
・・・
寂はしばしば仏典では「死」または「涅槃」を
指すために用いられてきた。
しかし、この語が茶の湯に用いられる時には、
その指すところは「貧困」「単純化」「孤絶」
などにちかく、ここに”さび”は”わび”と
同意語となる。
・・・
”わび”や”さび”を定義して貧乏の美的趣味
となすことができよう。
・・・
今日この語を用いる場合には、”さび”は
いっぱんに個々の事物や環境に、”わび”は
通常、貧乏、不十分あるいは不完全を連想させる
生活状態に適用される。」

「わびの生活はかように定義されよう。貧乏の
うちに深く蔵されているところの、言葉では
表わしがたい静かなよろこび、と。
茶の湯はこの観念を芸術的に表現しようと
いうのである。」

<わびさび>(2)
「茶室に不誠実の痕を示すような事物があれば
一切は全く破滅する。価もつけられぬような
調度品がきわめて純然たるままそこになければ
ならぬ。そこになかったかのごとくに在らねば
ならぬ。
たまたま発見されるのでなければならぬ。初めは
なにも変わった物の在ることに気づかない。が、
なにかしら心引かれる、さらに近寄って、試す
ように見調べる、すると思いがけないところに
純金の鉱脈がきらめく。しかし、黄金そのものは
発見されようとされまいと依然として同じところ
に在るのだ。それは偶然性にかかわりなくその
真実在を、すなわち己に対する誠実を失わぬ。
わびは己の本性に忠実なる意味である。」
石州流「秘事五箇条」にいわく、
わびの本家は天照大神である。日本の主だから
金銀財宝を用いた御殿を造っても誰も文句を
言わないのに、その質素なたたずまいは真の
茶人である、と。

<悟(さと)り>
「悟りがなければ禅はない。禅と悟りとは同意語
である。悟りの原則は事物の真理に到達するため
に概念に頼らぬことである。
・・・
(概念)には創造性がない。単に死物の蓄積にすぎ
ない。
・・・
悟りは心理学的に言えば「無意識」を意識すること
である。」

<芸術家>
「悟りはいかなる論理的範疇の下にも包摂される
ことを拒むから、その実現には一種特別の方法が
なければならぬ。
概念的知識にはその技法すなわち進歩的方法が
あって、それによって人は一歩一歩を進めてゆく。
が、これによっては事物の神秘に到達することは
許されぬ。しかも、この到達なくしては、いかなる
事の師匠や芸術家になることも不可能である。
どの芸術にもその神秘さ、精神的リズム、日本人
のいわゆる「妙」が存する。
これこそ、すでにのべた通り、禅があらゆる部門の
芸術と密接に関連する点である。
真の芸術家は禅匠と同様、事物の妙を会得する法を
知った人である。」

<幽玄(ゆうげん)>
—-永遠と実在への洞察—-
「妙はときとして日本文学において「幽玄」と
呼ばれる。ある批評家は、すべての偉大な芸術
作品はそのなかに幽玄を体現しているが、それは
変化の世界における永遠なる事物の瞥見(べっけん)
、または、実在の秘密への洞徹であると述べている。
すなわち、悟りのひらめくところ創造力がほとばしり
でて、妙と幽玄とを呼吸しつつ各種部門の芸術に
自己を表現するのである。」

<自覚>
「自覚に関する禅の技術の心理的解釈は「人間の
極限は神の機会である」—東洋流にいえば、窮して
通ずるという真理に基礎を置くのである。
偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な
努力を棄て去って、「無意識」の働きにまかせる
ときに成就せられる。」

<俳句のすすめ>
「日本人の心の強味は最深の真理を直覚的につかみ、
表象を借りてこれをまざまざと現実的に表現すること
にある。この目的のために俳句は最も妥当な道具である。
日本語以外のものをもってしては、俳句は発達できな
かったろう。
それゆえ、日本人を知ることは俳句を理解することを
意味し、俳句を理解することは禅宗の「悟り」体験と
接触することになる。」

<芭蕉>
「彼以前の俳句はたんなる娯楽以上の深い意味の
ない、一種の言葉の遊びだった。」

芭蕉の師、仏頂和尚が芭蕉に語りかける。
「近頃どう暮らしているか」
芭蕉が答える。
「雨過ぎて青苔湿ふ」
仏頂がさらに尋ねる。
「青苔いまだ生ぜざるときの仏法いかん」
芭蕉が答える。
「蛙飛び込む水の音」

仏頂の問いの意味は万物創造以前の宇宙風景である。
「時間なき時間はいつであるか。それは空な概念に
すぎぬか。空な概念でないとすればわれわれは他の人
のためになんとか述べられるに違いない。
芭蕉の答えは「蛙飛び込む水の音」であった。」

「俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の
表現ということをせぬのである。」

「芭蕉の古池は「時間なき時間」を有する永久の彼岸
によこたわっている。」

「詩人が彼の「無意識」を洞徹したのは、古池の静寂
にはなくて、飛ぶ込む蛙のみだす音にあった。これを
聞く耳にあった。この音がなければ、創作活動の源泉
であり、すべての芸術家がその霊感を仰ぐところの
「無意識」への洞徹が芭蕉にはありえなかった。」

<アラヤシキ>
人間の意識には、日常の意識、記憶の意識、そして
普通心理学者によって定義される無意識がある。
「しかしこの無意識層は最後の精神層ではなくて、
さらに真に深いところにわれわれの人格の地盤と
なるべつの層がある。」
これが「集合意識」すなわち阿頼耶識(アラヤシキ)
である。
「しかし、芸術的または宗教的生活の秘密を把握する
ために実在そのものに到達せんと思うときには、
「宇宙的無意識」となすところのものを持たねばなら
ぬ。
「宇宙的無意識」は創造性の原理、神の作業場であり、
そこに宇宙の原動力が蔵せられる。
あらゆる芸術品、宗教人の生活と向上心、哲学者を
動かす研究心、これらいっさいが、すべての創造能力
を抱く「宇宙的無意識」の源泉からくるのである。」
「「宇宙的無意識」は価値の宝庫だ。すでに創られて
いるか、または、創られることになっている価値物の
一切はここに貯えられる。その深みへくぐって行って
自分の体験の真珠を持ってくるには芸術家たることを
要する。」

<其の貫道する物は一なり>
「百骸九竅(ひゃくがいきうけう)の中に物有り、かり
に名付けて風羅坊といふ。
誠にうすものの風に破れやすからん事をいふにやあらむ。
かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごととなす。
ある時は倦みて放擲せん事を思ひ、ある時は進んで人に
勝たむ事を誇り、是非胸中に戦うて是が為に身安からず。
暫く身を立てむ事を願へども、これが為にさへられ、
暫く学んで愚を暁ん事を思へども、是が為に破られ、
終に無能無芸にして只此の一筋に繋る。

西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に
於ける、利休が茶における其の貫道する物は一なり。

しかも風雅におけるもの、造化に随ひて四時を友とす。
見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずと
いふ事なし。
像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあ
らざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造
化に随ひ造化に帰れとなり。」
(芭蕉「笈の小文」)
風雅とは一般に生活の洗練という意味である。
「それは生活と自然の清らかな享楽であり、さびやわび
に対する憧れである。物質的慰安や感覚主義の追求では
ない。・・・風雅の人はそれゆえ、花と鳥、岩と水、雨
と月を友とする。」

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